日本のフィギュアスケート界でアイスダンスが傍流であることに、この人は最後まであらがい続けた。元全日本チャンピオンの出光純子さんが今年5月22日に80歳で亡くなった。有望なダンサーが自身のキャリアのゆく末に迷っていれば物心ともに手をさしのべた。リンクでは朝から晩まで未来のスケーターの世話を焼き、75歳まで氷の上に立った。年齢を問わず男女が氷上でダンスを踊れる生涯スポーツのクラブも立ち上げた。選手には優しく、人気のシングルに偏る連盟には盾突く気骨の人。昭和から平成、令和に入るまで、アイスダンスの灯をともしたパトロンだった。
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高橋忠之さんは1979年世界選手権でブービーの19位に終わり、うちひしがれていたときに出光さんから呼び出された。品川のホテルのロビーで「日本のダンスのために(引き続き)やってもらいたい」と口説かれた。迷っていると翌日、3人目のパートナーになる佐藤紀子さんからバイト先に電話がかかってきて結成を持ちかけられ、次のシーズンから組んで全日本6連覇。五輪も84年サラエボ大会に日本のアイスダンスで初めて出場した。アイスショーは18年も続いた。
リンクの貸し切り代に年間100万円かかると言えば、ぽんと出してくれた。忘れられない思い出もある。オランダで初めて海外の大会に出場することになった76年、出光さんにフランスの振付師、ローラン・プティのバレエへ連れていかれた。練習で疲れて一幕で寝てしまったが、演目は「眠れる森の美女だった」と述懐する。それから高級そうなレストランへ。両端に銀食器が並び、前にはステンレスのボウル。「飲んでいいの?」と聞くと「手を洗うものよ」と教えてくれた。
その高級レストランでは鴨のオレンジソースを食べた記憶がある。社交ダンスの先生にもつないでくれた。赤坂にあったナイトクラブ、ニューラテンクオーターでは英国式のショーを見せてくれた。トイレで皿の上にチップを置いたのを覚えている。「後年、英国に行ったときに分かった。外国で恥をかかないように、わざわざ連れて行ってくれて教えてくれた。いいものを見なさいということだったんだろうな。さらっとやってくれるのが出光さん。粋な人だった」と懐かしんだ。
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