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57歳山本博、なるか1次選考会突破 東京五輪へ飽くなき挑戦 アーチェリー

われにかえった「山本先生」

 競技歴は40年を超える。横浜市の中学時代にアーチェリーを始め、横浜高では高校総体3連覇。日体大在学中の1984年、ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得した。続く88年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタと五輪に4大会連続出場。しかし、00年シドニー五輪はよもやの代表落ちで失意のどん底に。その4年後、アテネ五輪を控えていた山本を取材した。当時は埼玉・大宮開成高の教員。シドニー五輪の代表に漏れた屈辱が、アスリートの自分を目覚めさせてくれたという。

 落選のショックでまともに弓具すら持てず、もんもんとした毎日。数カ月後、山本先生は教え子の純粋な姿を目にして、ハッとわれにかえった。ある大会で負けた生徒たちは、翌日から一心不乱に練習。その光景を見て「おれは何をやっているんだ」と。過去の実績やプライド、わだかまりを捨てた。「変な仮面をかぶっていた」という自分を見詰め直し、ひたすら五輪を目指していた大学時代の心境に戻れた。

壮大なロマン

 04年8月19日、アテネのパナシナイコ競技場。アテネ五輪のアーチェリー会場となったこの競技場は、1896年の近代五輪第1回アテネ大会で主会場だった。重厚な雰囲気が漂う中で、大会前に自分を「大穴」と見立てていた山本は、淡々と矢を放っては的を射る。自然体の戦いぶりで決勝に進んで銀メダル。自身20年ぶりのメダルで、色のランクが一つ上がった。

 その直後。喜びの第一声を求める日本の記者たちに、こう言った。「よーし、あと20年かけて、今度は金メダルだ!」。20年ごとのスパンで銅―銀―金。気勢を上げたその一言は、壮大なロマンに満ちている。

 山本は今、笑いながら述懐する。「いやあ、あの時は、次の(08年北京)五輪で取ってやろう、というのが本音だったけどね。今となっては『あと20年』と言っておいてよかったよね」。その「あと20年」とは、単純に捉えるなら東京五輪の次、24年パリ五輪。山本が還暦を過ぎてなお、夢に向かっていくシーンが想像できる。「アテネの誓い」に、いい意味で縛られているのではないか。

生命線は練習への意欲

 その前に挑む東京五輪。山本は現在、日体大教授で、同大学スポーツ部門の強化やサポートなどを統括する「アスレティックデパートメント長」も務める。東京五輪代表1次選考会で競い合う16人の中には、普段は一緒に練習している日体大の学生もいる。フィールドに立ったら、後輩たちもライバルだ。「東京五輪のメンバーに入りたい。入れたら、勝ちたい。でも今は勝つイメージを浮かべられない。だから、練習を重ねるしかない」。全日本ターゲット選手権の予選後に1回戦で敗退すると、そう言った。「あす、すぐに練習しますよ」。おのずと練習への意欲が湧く。それが生命線でもある。「こういう気持ちになれるのは、いいよね」

 アーチェリーは経験と技術を生かせる競技だけに、自己管理と努力次第で年齢を重ねてもトップレベルの維持は可能だ。とはいえ50代の後半にもなれば、体も悲鳴を上げるようになる。山本も手足の指にしびれを覚えるなど例外ではないが、それもまたアスリートの宿命とばかり、悲壮感はない。1次選考会は初日に16人から12人に絞られ、2日目で8人が残る。競技人生で二桁にも及ぶ五輪への挑戦。6度目の成就に向けて、真っ向勝負する。(2019年11月11日配信)

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