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日本海軍はなぜ大和を建造したのか

「世界の最強軍艦」、構想の背後にある戦略

 世界最大にして最強の戦艦とされる大和は、1934(昭和9)年10月に建造プロジェクトがスタートした。広島県呉市の呉海軍工廠で1937(昭和12)年11月に起工され、太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月に竣工(しゅんこう)。戦争中には期待されたような働きはできず、戦争末期の1945(昭和20)年4月に鹿児島県坊ノ岬沖で米軍機の猛攻を受けて沈没した。

 大和の建造プロジェクトがスタートした当時、その12年前に締結されたワシントン海軍軍縮条約で、戦艦など主力艦の戦力には国際的な規制がかけられていた。大和は条約から脱退することを前提に構想されており、そのころの日本が持てる力をすべて注ぎ込んで建造された。

 大和の建造をきっかけに、日本は際限なき軍備増強に走り、太平洋戦争になだれ込んだと説明されることも多いが、いったい日本海軍は何を考えて大和を建造したのか、そして大和を建造したことが、わが国の歴史にどんなインパクトを残したのか―。艦船研究者の戸高一成・呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長のご意見をうかがいながら考察してみよう。(時事通信出版局・武部隆)

海軍の仮想敵は当初から米国
 日露戦争終結から2年後の1907(明治40)年、日本は国防に関する基本方針となる「帝国国防方針」を初めて策定した。この「方針」は、仮想敵国を定めた上で、その国と戦うための必要な陸海軍の兵力、有事の際の戦争遂行プランを盛り込んでいる。その中で、日本海軍が仮想敵国に据えたのは、太平洋のかなたにある米国だった。その後、「方針」は1936(昭和11)年まで3回改定されているが、海軍の一番の仮想敵国が米国であることは変わらなかった。

 ワシントン軍縮条約で主力艦の戦力を米国の60%に制限されていた日本は、条約を破棄しても、その差をすぐに埋められるだけの国力はなかった。条約が失効すれば、米国も軍艦の建造を増強することは明らかで、工業力の差を考えれば、格差解消の可能性はなかったと言える。

 戸高館長は「(大和建造の段階で)日本海軍に、海軍力を増強して米国に攻め込もうという発想はまったくなかった」と断言する。

「一発勝負」のコマだった戦艦大和
 では、当時の海軍は米国との決戦にどのような戦略を描いていたのか。戸高館長は「マリアナ諸島から小笠原諸島に至る防衛ラインを敷いて、そこで敵の艦隊を迎え撃つというのが基本的な考え方。『専守防衛』とも言ってもいい」と分析する。

 防衛ラインで敵艦隊を撃滅し、その後、講和に持ち込む―というのが日本海軍の抱いていた戦争計画のイメージで、要するに相手に先制パンチを浴びせて戦意喪失に追い込む一発勝負の発想しかなかった。

 1914(大正3)年から始まった第1次世界大戦で、欧米諸国は国家の持てる力をすべて戦争に投入する総力戦を強いられ、それが長期化する中で、より消耗した側が敗戦国になるという体験をしている。日本は第1次世界大戦に参戦はしたものの、中国大陸のドイツ租借地攻略など限定的な戦闘を行っただけで、長期消耗戦がどんなものかを理解せず、大国を相手に宣戦布告すれば、総力戦、長期消耗戦にならざるを得ないことは、知識として知ってはいたにしても、十分理解していなかった。

 戸高館長は「日本海軍が遠征的作戦を考えていなかったことは、太平洋戦争以前は、艦隊の長距離航行に必要な艦隊に同行する油槽船(タンカー)をほとんど建造しなかったことからも明らかだ」と指摘する。実は、日本海軍が世界最強の戦艦を必要としたのも、この「一発勝負」のコマにするためだった。

 たった一度しかない決戦のチャンスで確実に勝つためには、他国の艦隊を一撃で撃破できる大型の主砲と敵艦隊に先んじることのできる機動性が必須。このため、大和の設計に当たっては、他国の主力艦を凌駕(りょうが)する巨砲と高速力が何よりも求められた。

 戸高館長は「大和の設計は、一度の戦いに絶対勝たなければならないという考え方を前提にしている」と評価する。

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