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防衛駐在官メモが語る「六四天安門事件」~「勇気ある市民」流血の記録~(中)

北京飯店の前線拠点(1)

 1989年6月3日夜、ついに中国の民主化を求める学生らが陣取る天安門広場の武力制圧に向けて、人民解放軍の部隊が動きだし、広場から8キロほど西に行った木樨地では、市民と軍兵士が衝突し、流血の惨事が起こった。戦車や装甲車を広場に接近させれば、学生たちに犠牲者が出る。勇気ある市民たちは、なんとしても戦車などの進行を阻止しようと命懸けの抵抗を展開したのだ。

 広場から4~5キロ離れた日本大使館に陣取った防衛駐在官・笠原直樹の元には、前線拠点を置いたホテル「北京飯店」の館員や各地の情報網からどんどん情報が入ってきた。以下、6月3日深夜から4日未明に入った情報の記録の一部である。(報告時間、情報入手の場所、内容)

 2330 北京大学 学生自主放送(木樨地、新華門で軍と学生が衝突、李鵬退陣要求)。

 2230 木樨地 武装警察が発砲して3人の学生が血まみれで運ばれていった。

 2340 西単 軍用バスを学生・市民が占領、銃を手にしてバスの上に登っている。

 2345 民族飯店 民族飯店前で催涙弾が破裂。学生と軍が対峙(たいじ)。50~100人の兵士が盾をもって防戦。40~50人の兵士が催涙弾を連射。市民が逃げ惑っている。

 0035 建国門 装甲車1台が引き返して来て、バリケードを突破して天安門方向へ走り去った。この際市民1人をひき殺した。

 西単は天安門、中南海から西進した場所にある繁華街。民族飯店は西単よりさらに西に位置する。この記録を見れば、西から天安門に向けて西進する軍部隊は早い段階で、木樨地で市民と衝突し、軍は発砲して流血の惨事が起こり、さらに東にある民族飯店、西単、新華門でも衝突が起こっていることが分かる。

 北京飯店から「南と西から発砲が聞こえた」という報告が入ったのは4日0時50分だった。笠原は〈えっ、とうとう射撃したのか〉と感じた。

 以降、情報が次々と入ってきた。さらに一部記録を紹介する。

 0110 北京飯店 照明弾(信号弾か?)を打ち上げている。天安門南側方向頻繁に銃声が聞こえる。

 0115 北京飯店 天安門広場の照明がついた。

 0125 建国門 軍用トラックを学生・市民がすべて占領、兵士は歩いて元の道を戻って行く。

 0140 北京飯店 民衆が天安門広場西側で火をつけている。

 0215 北京飯店 天安門前の長安街付近で催涙弾と思われる物が約40発発射され、市民は東方向に移動している。

 0220 北京飯店 救急車5台が天安門から東に向かった。

 0230 北京大学 放送(西単で銃が発射され多数の死傷者、復興門で軍が発砲、市民1人が死亡)。

 0235 北京飯店 実弾発射はほぼ間違いなく、市民4~5人が血まみれで重傷。広場はかなり危険。自由の女神(筆者注・民主の女神)はまだある。軍はまだ広場を管理していない。

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