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戦後生まれの初の天皇に 雅子さま支え、務め果たす

慣習破る親子同居 高校生で「帝王学」本格化

 新天皇陛下は初の戦後生まれの天皇となられた。新しい時代の自由な空気の中で伸び伸びと育ち、留学も経験。外務省出身の国際派の雅子さまと結ばれた。今も療養が続く雅子さまを支え、令和時代の象徴の務めを果たしていく。

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 新天皇陛下は天皇、皇后両陛下の方針で幼少期も親元で過ごされた。当時は、宮中の慣習を破る出来事だった。小、中学校時代は剣道や山登りに打ち込み、高校になると将来の即位を見据えた「帝王学」も本格化した。

 1960年2月23日午後4時15分、宮内庁病院で生まれた。身長47センチ、体重2540グラム。生後7日目の同29日、命名の儀が行われ、お名前は徳仁(なるひと)、称号は浩宮(ひろのみや)と決まった。中国の古典「中庸」の「浩々たる其の天」「聡明(そうめい)聖知にして天徳に達する者」から引用され、ご両親の意見も踏まえて昭和天皇が決定した。

 ご一家は同年6月、東京・元赤坂の東宮御所に移居。皇室の慣習を破り、親子同居の生活を始めた。ご両親の子育ては、国民の関心の的となった。同年9~10月、生後7カ月の時、ご両親が公務で2週間訪米。その際、母の皇后さまが細かい育児メモを残し、お名前の徳仁から「ナルちゃん憲法」と呼ばれ話題となった。

 新天皇陛下は幼稚園から大学まで一貫して学習院で学んだ。学習院幼稚園に入園した年の64年10月、東京五輪の時に皇太子夫妻だったご両親の公務に初めて同行した。11月、健やかな成長を祝う「着袴(ちゃっこ)の儀」に臨んだ。65年11月に弟の秋篠宮さまが、69年4月に妹の黒田清子さんが誕生。お住まいはにぎやかになった。

 学習院初等科時代から、歴史に興味を持った。きっかけは、赤坂御用地内を散策中に「奥州街道」と書かれた木の立て札を見つけたことだった。鎌倉時代の鎌倉と奥州を結ぶ道が御用地内を通っていたと知った。初等科卒業の際の記念作文では、21世紀の「私」について「いま大学で日本史を教えています」と30年後の夢を書いた。

 「足腰の強い子に」という父の天皇陛下の思いもあり、水泳、乗馬、登山、テニスなどを開始。友人の影響で野球にも興味を持った。初登山は5歳の時に行った長野県軽井沢町の離山。その後、軽井沢周辺の山に次々と登った。5年の時、剣道部にも入部した。

 学習院中等科に進学し、中・高6年間の男子校生活が始まった。中学時代は勉強のほか、運動会や静岡・沼津での遊泳教室、岩手・八幡平への修学旅行といった集団生活から多くを学んだ。登山も本格的になり、山めぐりが続いた。

 学校では「じい(爺)」というあだ名も。盆栽に興味を持ち、「枝ぶりがいい」などと言ったことから、学友が年寄りじみているとして呼び始めたという。中等科3年の8月にはオーストラリアに2週間ホームステイし、初の海外経験となった。

 学習院高等科時代は正規の授業に加え、東宮御所に専門家を招く形で歴代天皇の事績や万葉集などの講義を受け、天皇になるための「帝王学」が本格化した。76年8月、ベルギーのボードワン国王(当時)の招待で同国とスペインを訪問。初の欧州体験となった。

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