太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月、米軍は沖縄への上陸作戦を開始した。世界最大の巨砲を搭載した旧日本海軍の戦艦「大和」は、海上特攻の命令を受け、敵艦船撃滅に向けて出撃するが、計300機を超える米軍機の波状攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。
護衛の駆逐艦「雪風」に魚雷射手として乗り組み、大和の最期を見届けた西崎信夫さん(92)=東京都=は、敵の機銃弾で自らも負傷しながら、ロープ一本で重油の海から兵たちを引き上げた。
(2019年4月3日)
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昭和2(1927)年1月、三重県の生まれです。9人きょうだいの末っ子で、男が3人おりました。うちが貧乏で、進学もできません。母親の姿を見ながら、なんとか貧乏から救うには、軍人になることが一番と思っていました。
高等小学校を卒業して、名古屋に見習い工で行ったんですが、新しく出来た海軍特別年少兵に推薦したいから、ぜひ受験しないかと村役場から話が飛び込んできて、これは渡りに船だと。会社を辞めて、母親に相談したものの、頭から反対でした。
2人の兄が既に出征していたからです。上の兄貴は陸軍さんで、次男は海軍の潜水学校に行っていました。仕方なく、担任だった先生に相談したら、「君の学力と体力なら受かるから、受験したまえ」と言われました。それで母親をなんとか説得して受験したんです。昭和16年10月、太平洋戦争の始まる2カ月前のことです。14歳でした。うまく合格して、翌年9月1日に広島県の大竹海兵団に入団したんです。
出征の朝、母から「死んでしまったら何にもならない。生きて帰ってこそ名誉ある軍人さんです」と、こう言われました。これがずっと私の記憶にありました。今振り返ってみると、あの言葉に、なんとか生きて帰らなくてはいけないと、一貫した考えができました。
村役場が主催して、小学校の校庭で盛大に見送ってくれました。児童が600人くらいおりましたかね。村の人たちが日の丸の旗を振ってくれたわけです。私は15歳。宙に浮くようでした。村長さんが紋付きはかまで、「君は郷土の誇りだ。お国のためにしっかり頑張ってください」と祝辞を述べて、万歳して。
駅に行ったら、既に親戚の人とか近所のおじさん、おばさんとか、友達が十数人来てました。汽笛が鳴り、列車が動きだしたんですけど、私の友達7、8人が線路伝いに追い掛けてきて、1人が「信(のぶ)ちゃん、頑張れよ」って声掛けてくれたんですね。そして、一番の親友が金切り声で「信ちゃん、死ぬなよ」って言ったんです。
この「死ぬなよ」という言葉に、はっとしました。それまで私は戦争行くのに死を意識してなかったんです。というのも当時は支那事変、これは勝ち戦ばっかりのニュースでしたから。だから死ぬようなことはないだろうと。しかし、この時、初めて死を意識しましたね。そうしたら戦争に行くのが怖くなった。このままひょっとすると帰れないのではないかと。
そう思って、母親が見送りに来ているんじゃないかと群集を見回すと、100メートルくらい離れた電柱の陰で、小さな旗を振って一人で立ってるのを見つけました。目と目が合った時に、私に何か訴えるようなまなざしだったのを今でも覚えています。「死ぬなよ」ということだったんじゃないかと思いますね。
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