1998年長野冬季五輪のノルディックスキー・ジャンプは、平成のスポーツ名場面の一つとして多くの人々に記憶されている。個人、団体合わせて金2個、銀1個のメダルを獲得し、主役となったのが当時22歳の船木和喜だ。「世界一美しい飛型」と称され鮮烈な印象を残した名ジャンパーは、ざっと2倍の年齢を重ね、4月27日に44歳となった。新しい「令和」の時代も現役選手として飛び続ける。(時事通信運動部・山下昭人)
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船木は長野五輪翌年の99年に所属していたデサントを離れ、有限会社「フィット」を設立。スポンサー企業を集めてプロ活動を始め、他事業にも着手した。今はジャンプ選手と会社社長以外にもいくつもの顔を持つ。
「この5月で会社が20年。いろんな事業を興してやっていて、他の会社で役員をやったり、専門学校で副校長をやらせてもらったり。(履いているわらじは)7、8足ぐらい。選手としての活動は、雪が降っている間はやる。ある程度計画的にはできています。うまく時間を分けてやってます」
故郷の北海道余市町に工房を構え、地元のリンゴを使用して製造したアップルパイが人気になった。全国の百貨店の物産展を回り、自ら店頭に立って販売する。五輪の輝かしいメダルも持ち込み、惜しみなく多くの人たちに触れてもらう。
「余市に工房を持って拠点にしています。北海道物産展とかあるじゃないですか。余市町に何も貢献できていなかったので、知ってもらおうと思いました。安定はしてきましたね。ありがたいことに、気に掛けてくれるお客さんが増えて。波はありますよ。天候にもよります。パイ自体が秋の食べ物で、春は売れなかったとか。秋に全滅という時もあるんです。毎日食べるのに必死ですよ」
絶頂期に独立
長野五輪で成功を収めた直後の絶頂期に独立する道を選んだ。自らスポンサーを探し回った苦労を、どこか楽しげに振り返る。
「デサントから出る時、最初に相談して夢を語って、それに賛同してくれたのは堤義明さん(元日本オリンピック委員会会長)。違う目標を立てるため、こういう活動をして生活を変えてやりたい、どう思いますかと相談に行った。頑張ってみろと言われた。方向を間違えそうになったら、必ず周りが助けてくれるから好きなように頑張りなさいと」
「(スポンサー探しで)ビルは結構攻めました。新宿は3分の1とか4分の1ぐらい(は回った)。スポンサーを集めないとプロじゃないですから。ビルの一番上から下がっていくみたいな。不思議なもので、上の方って大きい会社が多い。がっかりして帰る時もありましたね。紙切れ一つなんですけど、自分の夢を買ってくださった人ができたというのはすごく力になります」
他のアスリートではなかなか携わらないような経験を重ねてきた。競技以外に割く時間も多いが、活動の根底にあるのはやはりジャンプだという。
「原動力はやっぱりジャンプを続けたいってことじゃないですかね。目標はどんどん変わっていきますけど。それは、五輪にもう一回出たいというのは最大ですけど、自分のレベルに合った目標というんですかね。今は国内でとにかく表彰台。その中で勝利を1回でも2回でも。目標を持った上でやらないと続けられないですから」
「まだスポンサーさんがいますので、それがなくなったら引退かな。それはあくまで『プロ引退』なので、アマチュアに戻ればいいだけですから」
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