遺構保存はなぜ難しいのか それでも残す東西震災の先駆者たち~高野会館、野島断層、神戸の壁~

第1話 327人の命守った「高野会館」

 大地震や大津波に耐えて残った建物や被災物などを「震災遺構」として残すのは難しい。被災者にとっては「悲しくて、こわくてもう見たくない」「復興が先だ」という現実と、「大切な人を失った悔しさと、防災・減災の教訓を未来に伝えたい」という思いが交錯し、時に地域を二分することもあるからだ。それでも粘り強く運動し、阪神大震災の遺構を残した神戸・淡路の先駆者たちが、東日本大震災後に同じテーマに直面する宮城県の「南三陸ホテル観洋」を支援し、自分たちの経験と思いを伝えようとしている。遺構はどうやって残されたのか、これからどうすれば残せるのか。後世に「モノの語り部」を引き継ごうとする東西の取り組みと交流を報告する。(敬称略) (時事通信社 荒木健次)

 「生きたければ、ここにいなさい」-。宮城県南三陸町にある冠婚葬祭場「高野会館」で、責任者だった営業部長(当時)の佐藤由成は2011年3月11日午後3時前、強く長い揺れの後、3階宴会場の出口付近でこう声を張り上げた。網元の家に生まれ、チリ地震津波を経験し、かつて漁師でもあった佐藤は、津波の到来を予想した。芸能発表会に集まり、地震の後、急いで帰ろうとした約250人のお年寄りたちは、仁王立ちした3人の従業員に行く手を阻まれた。

 佐藤はすべての客と従業員を3階に集めた。海岸線から200メートルの位置にある会館は一部4階建てで、高さは26メートル。佐藤は設計段階からかかわっており、会館の下には59本の鋼鉄製のくいが打ち込まれるなど耐震基準を上回る強固な構造を持つことを知っていた。防災無線で伝えられた津波の高さは6メートル。「町内で最も安全な建物」にいれば、大丈夫だと思われた。

 しかし、3階屋上部分から志津川湾を望むと、海水が広範に干上がる異様な光景が見えた。「巨大津波が来る」。そう確信した佐藤は全員を3階屋上に避難させることを決断した。従業員はお年寄りと近所から逃げてきた人を誘導したが、高齢のため足取りは重く、階段に行列ができた。

 午後3時26分、同会館から1.5キロ先の沖合に浮かぶ荒島(あれしま)に津波がぶつかると巨大な水柱が上がった。「とてつもない波が来る」。想像以上の巨大津波が会館を直撃、10メートル近い水しぶきが上がった。一部は3階屋上に入り込み、くるぶしの高さまで浸水した。津波は階段を登っていたお年寄りを追い掛けてきたが、間一髪で難を逃れた。

 その後、何回かにわたって津波が来たが、屋上を越えることはなかった。だが、夕方から寒さが強まり、雪も降りだした。当日夜は4階の事務所棟に約250人、気密性が高く、暖を取りやすい屋上の機械室には体の弱い高齢者や子供を中心に約50人を収容し、従業員や若者は立ったまま、交代で中と外で過ごした。

 翌日、周辺の避難所までのルートの安全を確かめるため従業員らを先遣隊に出すとともに、会館で一夜を過ごした人々の名簿を作成した。従業員も含め327人。犬も2匹いた。先遣隊が戻り、周辺の避難所までのルートの安全が確認できたため、昼前から志津川小学校などの避難所へ移動を開始した。衰弱した高齢者らのためにヘリコプターの救援も依頼し、送り出した。午後3時すぎ佐藤と従業員らは最後に会館を出た。人の命を預かり、守り切った緊迫の24時間が終わった。

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