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延長二十五回、明石中は今 100回目の全国高校野球

野球と向き合った晩年

 ◇失敗しても真っすぐに

 痛恨のプレーをした嘉藤選手は兵庫県明石市への帰路、いたたまれない気持ちになった。その夏、前評判が高かった明石中。弘之さんは「大会前から地元が盛り上がっていたから、帰ったらひどい目に遭うんじゃないか、との覚悟もあったそうです」と話す。

 ところが、明石駅に戻ると凱旋(がいせん)のように迎えられた。大健闘をたたえ、市民が選手個々の名前を書いたのぼりを掲げ、一人ひとりを自宅まで送り届けてくれたという。感激した嘉藤選手は、上級生になると厳しい練習を重ねた。

 ただし、二十五回裏の残像は消えない。卒業後は旧満州(中国東北部)の実業団チームに所属し、都市対抗大会にも出場。弘之さんは「日本で野球を続けることが重荷だったのでしょう」。

 47年に引き揚げ、故郷明石市の内外ゴムに就職した。同社が軟式の野球ボール製造に着手した時期。程なく、軟式の感触で打球のスピードなどが硬式に近い準硬式球「トップボール」の開発に携わり、準硬式野球の普及、発展に貢献した。

 開発に営業に一心不乱。仕事で家を何日も離れることも。弘之さんは「失敗しても、真っすぐに生きて、最大限努力すれば取り返せる。そう言い聞かされました」と述懐。心の乱れが悪送球につながった嘉藤選手。教訓を胸に刻み、前進した。

 それでも、高校野球にはなかなか目を向けられなかったという。「甲子園大会を見るようになったのは、50歳を過ぎてからだと思います」と弘之さん。母校が春夏の甲子園に出場した87年は、明石中のチームメートらと一緒に球場で観戦。「すごくうれしそうでした」

 75歳で伝統校OBの野球大会に参加。85歳の夏は全国高校野球選手権兵庫大会で始球式を務めた。晩年は野球と向き合い、歴史に残る延長二十五回を経験した両校選手で最後の生存者に。2008年に90歳で死去。今年が生誕100年となった。(2018年7月22日配信)

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