踏切とともに暮らしてきた人々
住宅が立ち並ぶ中、所々に姿を現す畑や緑地-。戦後、ベッドタウンとして宅地化が進んだ東京近郊の町によく見られる風景だ。そんな中にその踏切はあった。
千葉県松戸市の流鉄流山線(単線)小金城趾(こがねじょうし)-幸谷(こうや)間。100メートルに満たない区間に第4種踏切が三つも続く。2年足らずの間に、このうちの二つで相次いで死亡事故があり、踏切とともに暮らしてきた計3人の命が奪われた。
三つの踏切は、南北に走る線路の南側から「第10号」「第11号」「第12号」と番号で呼ばれている。10号から11号までの距離は41メートル、11号から12号までは53メートル。12号のさらに北124メートルの地点には、警報機・遮断機を備える第1種踏切の「第13号」がある。
10~12号踏切は、線路の西側を並行する公道と東側沿いの土地に建つ民家を結ぶ橋の役割を果たしている。うち10号と11号は、1軒の民家にだけつながる事実上の「専用踏切」だ。死亡事故はこの二つの踏切で発生し、それぞれの民家の住人が死亡した。11号踏切の事故では、脱線した電車の乗客にも負傷者が出た。
現在、2軒の民家には誰も住んでいないという。それぞれの踏切前には、事情を知らない人が誤って進入することがないよう、工事現場などで見掛けるコーンが置かれていた。
事故はどうして起きたのだろうか。国の運輸安全委員会がまとめた鉄道事故調査報告書や関係者の話を基にたどってみる。
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