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「平成と私」インタビュー

浅野史郎・元宮城知事

◇知事選が最大の転機

 23年間務めた厚生省官僚から宮城県知事に転身、活躍した浅野史郎さんは当時「改革派知事」と言われた。知事退任後に成人T細胞白血病(ATL)を発症するも克服し、今は大学教授として若者に地方自治を教える浅野さんに聞いた。

 ―平成時代、人生を振り返って思うことは。

 平成元(1989)年は厚生省で障害福祉課長をやっていた。障害者福祉はライフワークとなったが、最大の転機はやはり93年の県知事選出馬だ。もともと志望していたわけではなく、前知事が汚職で逮捕され、出直し選の有力候補が副知事だったことへの「怒り」が原動力だった。決断するまでの1週間は人生で最も悩んだ期間だった。

 ―知事時代で印象に残っていることは。

 まず、県民参加の選挙ができたこと。選挙運動は政党や団体の仕事で、県民は投票するだけでは意味がない。3回の選挙とも政党推薦や寄付を全て断り、一般の県民が選挙に参画しやすいようにした。楽しい思い出だ。

 1期目に起きた「食糧費問題」も印象深い。架空の懇談会による虚偽支出が庁内で横行していたことが発覚した。前知事の汚職に続く県の恥に、怒る県民の群像が目に浮かび、うやむやにすれば、知事の椅子に座る資格はないと思った。内部調査を指示し、情報公開した結果、組織はよみがえったと思う。トップにしかできない決断だった。

 ―「改革派知事」と呼ばれ、当時の全国知事会でも「闘う知事会」メンバーとして活躍した。

 実に面白かった。地方交付税を削減し、地方に財源を移譲する小泉政権の「三位一体改革」の真っただ中で、会議は各知事が競って発言し、深夜まで続いた。今の知事会は活気がないという声もあるが、国と相対するだけが知事会の役割ではない。特色ある知事が47人も集まるのだから、成功施策などの情報を交換し、「善政競争」として切磋琢磨(せっさたくま)すればいい。

 ―少子高齢化の中、今後地方はどうあるべきか。

 今の地方創生は国主導の感が否めず、中央集権的にやることに矛盾を感じる。「交付金をもらうための創生」では駄目だ。自治体の強みは為政者と住民の距離が近いこと。住民をどれだけ巻き込んで自発的な行動を起こせるかが鍵だ。

 ―知事退任後の2009年春、ATLを発症した。

 ATLの生存率は低い。告知はショックだったが、妻に「病気と闘う」と宣言すると、自分の言葉に勇気づけられ楽になった。「足下に泉あり」というニーチェの言葉がある。足元を掘り続ければ必ず美しい泉が湧く、意に沿わぬ場所でも目前のことを懸命に取り組めという意味だが、まさにその精神。骨髄移植を経て翌年末に退院した。

 筋力も落ち、20年以上続けたジョギングができないのが一番残念だ。行き当たりばったりの人生だが、楽しくなければ人生ではない、となるべく悩まずやってきた。今も「歩く栄養剤」と言われるほど、元気でやっている。(2018年5月配信)

  ◇  ◇  ◇

 浅野 史郎さん(あさの・しろう)東大法卒。1970年厚生省(現厚生労働省)に入り、障害福祉課長などを経て93年宮城県知事に初当選し、3期12年務める。2013年から神奈川大特別招聘(しょうへい)教授。1948年2月8日生まれ。仙台市出身。

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