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「平成と私」インタビュー

斉藤惇・前日本取引所グループCEO

◇失われたのは「30年」

 バブル崩壊後の金融激動期を野村証券役員として見詰め、2000年代には日本経済の重しとなっていた過剰債務企業の事業再生、証券取引所の活性化に取り組んだ斉藤惇・前日本取引所グループ(JPX)最高経営責任者(CEO)に聞いた。

 ―平成の30年間をどう振り返る。

 将来の問題を十分に解けず、後世の人たちに多大な負荷と大きな宿題を渡してしまうことになった。日本は年30万~40万人の人口減少に直面し、深刻な財政問題を抱える。この30年間、われわれが何をしてきたのか、じくじたる思いだ。先輩が持っていた質実剛健な倫理観も弱まり、痛みを伴う改革ができなかった。

 ―失われたのは30年だったのか。

 まさしく失われた30年だ。コーポレートガバナンス(企業統治)や国際会計基準の導入など変わったことも多い。しかし、世界的なレベルから見れば相当遅れたのも事実だ。野村にいた当時から政府のさまざまな会議や委員会に出席し改革を議論してきたが、一体何だったのかという思いはある。

 ―変えられなかった理由は。

 1989年は日経平均株価が3万8000円台とピークを付ける一方、同時期には政官財の癒着による社会事件も起きていた。なぜ戦後経済の繁栄があり、政官財のスキャンダルが発生したのか、そしてなぜ経済成長が止まったのか、徹底して分析し、次の時代を再設計すべきだったが、バブル後の右往左往によって検証プロセスが欠けてしまった。

 ―昭和の成功体験は大きかった。

 個別企業にとって成功体験の一つは、年功序列という制度だ。大多数の企業はいまだにリーダーを能力でなく、年齢で選ぶ。無難だからだ。能力で選ぶと、足を引っ張る動きが必ずある。こういう問題こそ、われわれの時代に解かなければならなかった。情報技術革命という大きな変化も日本では捉えきれなかった。ステップアップするための発射台は今も作れていないままだ。

 ―次世代への贈り物は。

 平成初期に観光の活性化が議論され、30年もかかってしまったが、観光業の発展は明るい贈り物だ。大きな産業になったが、それ以上にどの地方へ行っても外国語が聞かれ、外国人への人々の違和感がなくなった意味は大きい。農村で働く外国人も多くなり、制度的な問題もきちんとすべき時だろう。

 ―低成長に満足するムードもある。

 年数%の成長を遂げる中国に対し、日本は低成長が続いている。「空気がいい」「水がおいしい」などと言うが、成長しなければ何十年後かにはその水だって飲めなくなる。人々の生活水準は上がっていく。ある程度を自分たちで満たす経済成長は不可欠だ。

 ―金融の混乱、企業の浮沈を踏まえた教訓は。

 今日の痛みを先延ばしせず、思い切って取り切ってしまうことがいかに大事だったか。最近の例を見ても、ある時点で思い切った決断をした大手電機メーカーと、問題を先送りしたそのライバル企業を比べれば、それははっきりしている。(2018年5月配信)

  ◇  ◇  ◇

 斉藤 惇氏(さいとう・あつし)1997年、総会屋事件を受け野村証券副社長を引責辞任。2003年4月、産業再生機構社長。ダイエー、カネボウなどの事業再生に取り組み、07年~15年6月まで東証、日本取引所グループのトップとして市場改革、活性化をリードした。現在は日本野球機構会長・日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー。1939年10月18日生まれ。熊本県出身。

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