◇刺激と試練と夢を与えられた
バブルの終わりに近づいた1989(平成元)年に誕生したオープンスポーツカーのマツダ「ロードスター」。2人乗りで趣味性の強い車だが、エコカー全盛の今も4代目モデルがラインアップに名を連ねる。開発にも携わった同社ロードスターアンバサダーの山本修弘さんにその魅力を聞いた。
―ロードスターが30年も生き続けた理由は。
運転して楽しいという車の本質的な価値が失われていないことに尽きる。ユーザーがお金を払う価値は何かを考えた時、車を使って何らかの感動や驚きの体験を得られることが大事だと思う。それがあの車の本質で、30年たってもコンセプトは古くなっていないし、これからも変えない。
―世界は電気自動車や自動運転にかじを切りつつある。
環境の問題は大きく、電気自動車のマーケットは尊重しなければいけないし、(メーカーも)役割を果たしていかなければならない。しかし、車の使い方には多様性がある。安全技術や自動運転といった技術が進化しても、運転する人の心や気持ちは(自動車が一般に普及した)100年前から変わっていない。何か心が豊かになれるようなものがあれば、ユーザーはずっとその車を使ってくれる。
―日本の一流メーカーでデータ偽装などの不祥事が続いた。「ものづくり」の精神はどうなる。
日本のものづくりは変わってはいない。(不祥事は)グローバル化の波に適応する中で表れたものだ。マツダもグローバル化の波にのまれ、2000年以降、米フォード(15年に資本提携関係解消)の傘下で経営を立て直した。物事や目標の決め方などをフォードに教わった。
(不祥事があった企業でも)製品価値や安全性は落としていないと思う。ただ、日本だけで通用していたやり方ではなく、全てが明らかにされたあるルールの下で、正しい仕事をしないといけない時代。そうしたグローバルな感覚が経営者に求められるようになったのだと思う。
―平成とはどんな時代だったか。
激動の時代だった。1991年にロータリーエンジンで(世界三大レースの)ル・マンに優勝し、期待の新型車も出たバラ色の時。その後バブル経済がはじけ、フォードの傘下で車造りを一変させた。マツダがどう生きなければならないか感じ取ることができた時代。勉強させてもらったと思う。
激動の平成時代だったが、僕たちに刺激と試練と夢を与えてくれた。「変革か死か」でリストラもあったし苦しい時もあった。しかし、それを生き抜いてきて、新しく会社のブランドを確立し、次の新しい時代もやり遂げられる、そんな希望を持てた。平成という時代に鍛えられたからだと思う。
―改めて日本車で初めてル・マンで勝った時の気持ちを。
夢がかなった、というのはこのことなのかと思った。「やったー!」と会社の連中とみんなで拍手して抱き合って、自然にそういうふうになって喜びを享受できた。クルマ(優勝したマツダ787B)が日本に帰ってきて、いろんなイベントをやるうちにすごいことを成し遂げたんだなという実感が湧いてきた。
―平成の時代は、かつてのマツダのシンボルとも言えるロータリーエンジン車の生産を終了した年でもある。
私はエンジニアとして、ロータリーエンジンの生産終了を2回経験した。78年から2002年まで3代にわたってつくったRX-7。03年から12年までつくったRX-8。ともに最後は「スピリットR」という限定モデルを出した。「R」には何の意味が込められていると思いますか。
「ROTARY(ロータリー)」のRでもあるけど、「RETURN(リターン)」、つまり「われわれは戻ってくるぞ」という意味も込められている。それはユーザーに対するメッセージ。いつか再びロータリーを復活させたいという思いを込めた。それをちゃんと伝えたかった。われわれの希望でもあり、ユーザーも同じ気持ちだと思う。
―初代ロードスターのレストア事業も始めた。
長く乗りたいというユーザーの希望があった。その環境をつくることでユーザーとの絆を深めたいということと、愛する車を長く乗り続けるという自動車文化を、日本で発展させることに貢献したいという思いがあった。乗り続けているユーザーには「ずっと乗ってください」というメッセージを伝えたい。われわれも乗ってもらうためにレストアを続けていきたいと考えている。(2018年5月配信)
◇ ◇ ◇
山本 修弘さん(やまもと・のぶひろ)1973年マツダ入社。ル・マン用4ローターエンジン開発担当などを経て96年に2代目ロードスター開発に携わる。2007年商品本部スポーツカー(ロードスター)担当主査、16年7月ロードスターアンバサダー。1955年1月31日生まれ。高知県出身。
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