2017年05月02日
「116(イチイチロク)」。警察関係者や事件記者の間でこう呼ばれた一連の朝日新聞襲撃事件(警察庁指定116号事件)は、記者2人が殺傷された阪神支局襲撃事件が2002年に公訴時効を迎えたのに続き、03年3月には静岡支局の駐車場に時限爆弾が置かれた爆破未遂事件も時効となり、類似事件も含めた8事件全ての時効が成立した。警察は延べ124万人の捜査員を投入し、右翼・新右翼関係者らを中心に徹底した捜査を進めたが、捜査の網の目からこぼれ落ちた事実もあった。1987年5月3日に発生した阪神支局襲撃事件から30年。この間、ずっと眠ったままだった一つの告発書がある。この中に、闇に消えた「赤報隊」に近づくヒントがあったのかもしれない。(社会部・田中賢志)
「記念館」構想機に
B5判に乱れた縦書きの文字。書面のコピーは全部で50枚にわたる。付されたタイトルは「私は民間人の死体を見なかった」。匿名のため筆者は不明だが、「ある南京戦参加者」と記されている。冒頭で「新聞に(市民団体が)名古屋市に南京虐殺資料館をつくるよう申し入れると出ていました。これは南京虐殺があったということを前提にしているわけですが、南京戦に参加した私は承服できません。それでこの一文を草しました」と告発書を著した目的を書いている。日付は「昭和六十二年六月三十日」。つまり87年5月の阪神支局襲撃事件の直後だ。
87年は、日中戦争中に日本軍が首都南京を占領した際に非戦闘員を含む多数の中国人を殺害したとされる「南京大虐殺」からちょうど50年に当たる年だった。南京大虐殺が「あった」とする立場と、「なかった」とする立場の双方が、それぞれ活発な言論や行動を展開し、社会における大きな議論のテーマの一つとなっていた。
名古屋市は78年から南京市と姉妹友好都市提携を結んでいる。また、司令官として「南京大虐殺」の責任を問われ、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑となった松井石根陸軍大将は名古屋市出身だった。こうしたことから、南京市との関係が深いとして、名古屋市では「虐殺があった」とする立場の活動が特に活発で、大学教授らを中心とする市民団体が「南京大虐殺を心に刻む」と呼び掛けて集会を重ねるなどしていた。活動の中で、南京市にある「南京大虐殺記念館」の姉妹館を名古屋市に建設する構想が持ち上がり、市民団体は、申し入れ書を名古屋市や愛知県に提出した。
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