2020年、日本で2度目の夏季五輪、東京五輪が開催される。1964年の東京五輪は、世界の視線が日本に集まり、日本スポーツ界発展に寄与しただけでなく日本の戦後復興の象徴となり、多くの日本人の心に深く刻み込まれている。そんな中で、東京五輪のゼッケンとスカーフに思いを込めた人々がいた。(時事ドットコム編集部 舟木隆典、写真撮影:時事通信ニュース映像センター 入江明廣)
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1964年9月の終わりごろ。東京五輪開幕を数週間後に控えたある日、東京都中野区の町工場「日の出グランド」に突然注文が舞い込んだ。
「東京五輪の、陸上競技のゼッケンを刷ってほしい」―
出場選手は約700人。1選手につき、ゼッケンはユニホームの胸と背中、その上着のジャージー用の胸と背中の、計4枚。刷る枚数は、約2800枚に及ぶ。日の出グランドは、スカーフやハンカチーフの企画販売などを行う「ブルーミング中西」の下請け工場。ゼッケンの注文も、同社からのものだった。日の出グランドは、弓削章一さんと妻の和子さんが切り盛りしていた。
開幕は迫る。そこから3日間、寝ずの作業が始まった。
1から700番台まで、番号は当然一枚一枚異なる。大量生産にはなじまない。現在ならインクジェットで容易に刷ることが可能だが、当時は1から9までの数字の型を手でつくり、ゼッケンごとに型を並べ、油性のインクを刷り込むのも全て手作業。刷り終わったゼッケンは、3~4時間自然乾燥させなければならない。
「家の中にいっぱいぶら下げて乾かしたらしいですよ。近所から洗濯ばさみを借りて」
章一さんと和子さんの息子で、現在はブルーミング中西に勤務する弓削倫太郎さん(49)はこう話す。ゼッケンに数字を三つ並べる場合、1や4は他の数字との間隔を測るのが難しい。全て章一さんが数字のバランスも判断し、刷り上げ、乾かす。こうして、東京五輪の陸上競技のゼッケンは完成した。
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