インターネット社会が進展し、個人の自由な情報発信が増える中、「日本語の乱れ」が指摘されることが多くなりました。辞書編集者の奮闘を描いた小説『舟を編む』が注目され映画もヒットするなど、言葉への関心も高まっています。そこで、36年間辞書編集に携わり、言葉に関するコラム集『悩ましい国語辞典』を出版された神永曉さんに、辞書づくりと言葉にまつわる裏話を聞いてみました。
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「19世紀のイギリスには辞書編集という重い刑罰があった」
私が『日本国語大辞典(日国)』第二版の編集作業を行っていた頃、作家の井上ひさしさんに聞いた言葉です。辞書編集の仕事がいかに単調で辛気くさいものか想像してください。36年も辞書編集者として生きてきた私は、さしずめ終身刑を受けたようなものでしょう(笑)。でも私は、この仕事を通じて言葉の面白さに目覚めていきました。『悩ましい国語辞典』は、その面白さがわかっていただけると思います。
私が長い間関わってきたのが『日国』です。初版を1972~76年、第二版を2000~01年に刊行。第二版は全13巻に約50万項目を収録し、奈良時代から昭和までの文学作品や史料などから約100万用例を採集しています。方言や外来語のほか、各分野の専門語、人名なども収め、百科事典としての性質も併せもった日本最大(つまり世界最大)の国語辞典です。
『日国』がモデルとしたのは、イギリスの『The Oxford English Dictionary(オックスフォード英語辞典)』。OEDと呼ばれます。OED編纂の中心人物、言語学者のジェームス・マレー宛に、膨大な量の用例を送り続ける謎の人物がいました。ウィリアム・マイナーという元アメリカ陸軍の軍医です。マイナーはイギリスで殺人を犯し逮捕されたのですが、精神の病を理由に無罪となり、病院に収容されていたのです。マイナーはマレー博士の辞書編纂の熱意に感動し、死ぬまで用例を送り続けます。
実は『日国』編集部にも同じような話があります。ある地方都市から、辞書の内容に関する指摘をきちょうめんな字でびっしり書いて頻繁に送ってくれる方がいました。あまりにも有益な内容のものばかりだったので、対応した編集者がお礼かたがた一度お目にかかりたいと手紙を出すと、「会う必要はない」と断りの手紙。編集者が住所を頼りに近くまで訪ねてみると、そこは行けども行けども高い塀が続く場所だったというのです……。
『日国』編集部に、警視庁捜査一課から電話がかかってきたこともあります。方言の用例について「この地方では使うか?」というような内容です。『日国』は方言の用例が豊富な辞書ですが、警察に『日国』が備えられ、刑事さんが実用に使っているのは想定外でした。
どうも大辞典は、刑事司法となにかしらご縁があるようです。
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