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ソ連侵攻、苦しみ今も

裕福だった生活

 俳優の宝田明さん(81)は旧満州(現中国東北部)で育ち、1945(昭和20)年8月15日の終戦をハルビンで迎えた。小学校5年生だった。それまでは裕福な暮らしだったが、ハルビン市内にごう音を立ててソ連軍の戦車が入ってくると、生活は一変。父や兄と強制使役に駆り出され、兄の行方は分からなくなった。街では兵士たちの略奪と暴力が横行し、自らも発砲された。心の傷は今も消えないという。

聞き手:文化特信部 竹葉秀彦
編集:時事ドットコム編集部
(2015年8月15日)

 ◇ハルビンの軍国少年に

 祖父が海軍武官として朝鮮総督府に行き、私は朝鮮北部(現北朝鮮)の清津で生まれました。南満州鉄道(満鉄)の社員となった父の転勤に伴って、旧満州へ移り住み、小学2年生の時に大都市ハルビンに引っ越しました。

 ハルビンはもともとロシアが造った都で、食糧も資源も豊かでした。しかも満鉄は国家の大動脈を支える(日本の)国策会社。それを守るためにも関東軍の精鋭部隊が駐屯しているわけです。社員の暮らしは裕福でした。社宅の石炭箱には、南満州の撫順で採れる良質な石炭が山ほど入っていました。マッチをかざせば、パッと火がつくほどの石炭でしたね。

 当時は軍国主義的な時代ですから、小学校の高学年になると、満鉄の社宅から15分も行ったところに関東軍の兵舎がありまして、そこに配属されて軍事教練をさせられました。朝6時には起きて毛布をきちんと畳んで、畳み方が悪いと「こらっ」とげんこつで殴られたりして。

 食事の後、7時すぎには軍事教練。胴着を着けて、マスクをするんですが、屈強な兵隊が木銃で「えいっ」と突いたりすると、子供ですから吹っ飛ばされるわけです。時としてびんたを食らって、わーわー泣いたりして。それでも、あっという間に軍国少年にならざるを得なかったわけです。

 学校の教育もそうですし、自然と「やがては強い関東軍に入って兵隊となって、いまだ見たことのない祖国日本の北の防塁たらん」という分別くさい少年になっていったのは事実ですね。

 当時、ハルビンにはアジア映画館というのがあるんですが、そこでやっていた劇映画には、本編の前に5分ほどの「日本ニュース」というのがありました。最初に宮城(皇居)で白馬にまたがった陛下の姿が映ると、みんなパッと起立するんです。まともに見たら怒られますので、直立不動で頭を下げて、上目遣いで見ながら「あそこが宮城か。天皇陛下さまはご立派な方なんだ」と涙が流れたのを覚えています。自然でしたよね。感情的に。

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