百里へ帰ったのは8月10日だと思います。もう隊員全員が特攻隊のようなものでしたからね。いよいよ本土決戦、敵が上陸するということで、持てる飛行機を全部使ってまずは体当たりをして、残った者は陸戦で戦うというような非常に緊迫した状況の中の原隊復帰でした。
上官からは「とにかくご苦労だった。気持ちを休めるためにも保養所へ行ってゆっくり垢を落としてこい」と言われ、袋田温泉にあった海軍の保養所に行って、あすは隊に帰ろうかというときに終戦になったんです。
愛国心が問われるかもしれませんが、玉音放送を聞いたときは「戦争が終わってよかった」と思いましたよ。でも一緒に行った仲間は特攻戦死していましたから、亡くなった戦友に非常に申し訳ない気持ちが強かったですね。
終戦を百里で迎えたとき、私と同じように種子島に不時着して助かった須田君という特攻隊員がいましたが、彼は私と基地で別れるとき「せっかく助かった命なんだ。これからの人生は、自分の命をとにかく大切にしよう」と言ったんです。
終戦後も文通を交わしていましたが、数年後に自殺してしまいました。元東大生で非常に理性的な男でしたが、仲間の後を追うように命を絶ったのでしょうか。
川野博章君という、明治大のマンドリン部出身だった戦友もいました。彼は私より先に特攻編成になりまして、百里から特攻機で前線基地に飛び立つときに、当時流行していた「ラモーナ」という哀愁に満ちた歌を歌いながら、自分の柩(ひつぎ)となる特攻機に乗り込んでいったんです。当時彼は22歳前後でしたが、非常に冷静で、立派に覚悟ができていたんだと思いますね。
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