黒島には当時、同じように島に不時着した陸軍の柴田信也少尉が伏せっていました。島のがれきの中に不時着した際にガソリンが火を噴いて大やけどを負い、島民の看護で何とか一命を取り留めた方です。
私たち3人は柴田少尉が看病されている家とは別の藁葺きの民家でお世話になりました。食料が非常にないときでしたけども、島民は軍人として優先的に世話をしてくれましたね。
昼間は米軍機が編隊を組んで上空を飛んでいくのが島から見えました。北九州、南九州で大空襲をして、また沖縄へ帰るわけですね。一方、夜明けと夕暮れには日本の特攻機が一機ずつ「ぶすんぶすん」と非常に弱いエンジン音を立てながら沖縄へ突っ込んでいく。そういう状況の毎日で、私は「もうこの戦争はだめだ」と思いました。
毎日海岸へ出て内地の方を見ましたが、海に(日本軍の)船が一隻もいないんですよ。海上は米軍に閉鎖されて、おそらくはアメリカの潜水艦がたくさん潜っていたんでしょう。
その後7月30日になって、陸軍の潜航艇が我々を乗せて長崎へ救出してくれました。長崎に上陸して広島経由で原隊の百里原基地に戻ったんですけど、広島を通ったときは原爆投下の翌日の8月7日でした。
もう惨憺たる原爆の被害を目の当たりにしましてね。「Nothing」。町もなにもないんです。道に死骸は累々としているし、瀕死の重傷者も救いようがないわけですね。
「水くれ、水くれ」と言って、最期に水を飲んで亡くなるような状況で、生き地獄でしたよ。一発の爆弾で10万人と広島の町が壊滅したと聞いて、「この戦争はもう終わりだ」という思いを強く抱きました。
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