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元特攻隊員の証言

出撃そしてエンジントラブル

 1回目の出撃は45(昭和20)年4月28日でした。南九州の串良(くしら)基地から九七式艦攻で出撃しましたが、開聞岳付近でエンジントラブルが起きて急速に高度が下がってきたので、操縦員に命じて最寄りの知覧飛行場へ800キロの爆弾を積んだまま緊急着陸しました。

 知覧の飛行隊長には「800キロの爆弾が爆発したら知覧が壊滅するぞ」と叱られましたが、そうかといって落とす場所がない。近くの海に落としても爆風で相当被害が出ると思いましたので、爆弾を積んだまま降りましたが、知覧飛行場としては迷惑千万だったでしょうね。

 私たちは知覧からまた串良基地に戻りましたが、一緒に出撃した戦友は6機中4機が特攻して全員戦死していましたから、自分の運命は当然彼らと共にすべきだということで、士気が衰えることはなかったですね。

 2度目の出撃は5月11日でした。当時、沖縄本島東側の中城湾にアメリカの艦艇が多数遊弋(ゆうよく)していましたから、できるだけ大きな戦艦とか空母を狙えということで特攻命令を受けたんです。

 当日の朝5時ごろ、いよいよこれから搭乗機に乗り込んで出撃するときに、18歳の電信員が私に「分隊士、一緒に死にましょうね」と言ったのをよく覚えています。ところが、黒島を過ぎて間もなくまたエンジントラブルが起きました。

 行くもならず本土へ帰るもならずで、黒島上空まで戻り、黒島まで500メートルほどの海上に不時着したんです。操縦員の操縦技術は非常に優れていましたが、どうしてもエンジンが重いですから海面に頭から突っ込んでいくことになる。

 プロペラがまず曲がりましてね。翼がありますから機体は1分くらい浮いていたでしょうか、その間に機密になるような電信機の機具を全部取り外して海に捨て、3人で脱出して飛行服のまま島へ泳ぎ着きました。

 私は飛行靴を脱がないでなんとか泳ぎ着きましたが、操縦員も電信員も靴を脱いで泳ぎましたから、島ではわらじをもらって履いていましたね。

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