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元特攻隊員の証言

基地黒板に自分の名

 元海軍航空隊特攻隊員 江名武彦さん(91)

 両親は飛騨高山の出身。私は1923(大正12)年東京生まれの江戸っ子です。開戦当時は早稲田大政経学部の学生でした。43(昭和18)年12月10日に学徒動員で、広島県の大竹海兵団に入りました。泥臭い陸軍よりも、軍艦に乗って敵と対峙するスマートな海軍がいいと思って志望したんです。

 大竹海兵団で2カ月足らずの基礎訓練を終えて、44(昭和19)年2月1日には茨城県の土浦海軍航空隊に配属されました。飛行兵を志望したのは飛行機へのあこがれもありましたが、どのみちどの兵科も命の補償はないわけで、どうせ身を捨てるならば華々しい部隊がいいと思ったんですね。

 その後は土浦から静岡県の大井海軍航空隊へ赴任しまして、偵察員としての訓練を受けました。九〇式機上作業練習機や「白菊」といった機体で猛訓練を受けたわけです。

 特攻要員になったのは45(昭和20)年3月。大井海軍航空隊から、百里原海軍航空隊という艦攻隊や艦爆隊の基地に転勤することになりました。敵の空襲のないとき、特攻訓練を毎週のようにやっていましたが、4月10日に訓練を終えて基地に戻ったら、戦友が私に「おめでとう」と言うんです。

 「ああ、特攻編成になったんだな」と思って、基地の黒板を確認したら、私の名前も「正気隊」という特攻隊編成の中に入っている。一瞬「いよいよ来たか」と血の気が引くような思いがしました。それはそばにいた戦友も見逃さなかったと思いますね。

 特攻編成になったのは10日で、20日にいよいよ正気隊もこれから前線の串良基地に進出するということになりました。隊の集合写真と一人ひとりの写真をそれぞれ撮影して、「故郷へ戻って別れを告げてこい」と言われるんです。

 出撃命令を受けたのは出撃日の前日。特攻編成になったときに自分でも覚悟していたつもりですけども、出撃命令を受けた前の晩というのは人生20年の幕を閉じるときですからね。

 弱冠二十歳前後で国のために命を捨てるということはやむを得ないにしても、もうこれで自分の命が数十時間後には絶たれる。そういう自分の気持ちを整理するということで、特攻隊員はみな悶々とした一夜を過ごしたと思います。

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