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8月6日広島の記憶

焼き尽くされた街

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島の街は、米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」から投下された1発の原子爆弾によって焼き尽くされた。

 広島市によると、同年末までの間に、約14万人が死亡したとされる。

 閃光(せんこう)とそれに続く爆風で自らも傷つきながら、全身にやけどを負った人たちを救おうと、壁だけとなった病院で懸命に救護活動に当たった元看護婦生徒の証言を紹介する。

聞き手:広島支社 及川彩
編集:時事ドットコム編集部
(2015年8月3日)

 竹島直枝(たけしま・なおえ)さん(87)

 1928(昭和3)年、今の広島県府中市上下町の生まれです。日本赤十字社広島支部病院救護看護婦生徒養成部、広島赤十字看護専門学校の前身に16歳で入学しました。祖父が診療所をつくったり、父が病院の事務長をしたりしていましたから、看護婦さんと接する機会は多かったです。

 女学校時代はずっと第2次大戦中でした。勤労奉仕があり、田植え、麦植え、麦刈りなど全部やりましたよ。出征している家庭で作業しました。

 姉、自分、妹、弟3人の6人兄弟。よその家は男の子が出征で出て行く。同級生は少年航空隊に行ったりしました。そういう中、自分はどうしようかと思いました。それで、日赤を受けよう、少しでもお国の役に立ちたい、これが最初の希望でした。

 看護婦を目指しましたが、女学校の校長先生は私がやせっぽちだから、健康診断ではねられて帰ってくるよと母に言ったそうです。身長体重の基準があり、そこをパスしないと先に進めない。次にレントゲンを撮ったりするんです。体重がぎりぎりだったんです。

 測っている人が、私のことを「のけようか」「どうしようかね」と話す、その会話が全部聞こえるんですよ。「まあいいにしてあげようか」と。身長体重を通してもらって、後の健康診断を受けることができたのです。その日に健康診断の発表があり、面接は次の日にありました。

 そのころ、日赤の広島支部が今の原爆ドームの川側、相生橋のたもとにありました。そこで参事が面接をしてくれたんです。「痩せているし、ひょろひょろだけど、体力テストは何級だったの」と聞かれ、「上級でしたよ」と答えると、「うそ言うな」と。「うそじゃない、本当なんですよ」と言ったりして。

 その日の夕方に健康診断を通った人の発表がありました。そして翌日、試験。参事の面接。いよいよ発表は帰ってから。(同じ学校から)3人受け、3人とも合格し、入学しました。

 朝、電報で連絡があり、父から「合格したよ」と言われました。これでお国のためにと思いました。救護看護婦さんはみんな、戦地に出て行くのです。男の子と同じように、これで私も戦地に行けるという気持ちでいました。戦時態勢の中で育った子ですので、お国の役に立てることがうれしかった。一緒に合格した同級生も同じ気持ちでした。

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