南北9キロ、東西3キロ。フィリピンの東、パラオ諸島南西部に位置する隆起珊瑚の小島ぺリリュー島は、太平洋戦争における日米両軍の激戦地となった。ぺリリュー島と隣のアンガウル島には、日本海軍の主要な飛行場があり、その軍事的な利用価値から、フィリピン奪還を目指して太平洋を北上する米軍にとって、本格的な進攻作戦の前に手中に収める必要があった。
日本は、増援部隊として精鋭と呼ばれた満州の関東軍を転用することにし、昭和19(1944)年4月、第14師団をパラオに派遣。このうち、ぺリリュー島には歩兵第2連隊、第15連隊第3大隊などが送り込まれた。
日本の守備隊は、海軍部隊も含め約1万人。これに対する米軍は約4万人の兵力で、怒涛(どとう)のように押し寄せ、上陸作戦を展開した。米海兵隊が上陸を敢行したのは9月15日。米軍は当初2、3日で陥落するとみていたが、日本側は激闘を続けて多大な損害を与え、兵力消耗後も島内に張り巡らせた洞窟陣地にこもり、持久戦を耐えた。
「バンザイ突撃」をすることなく、米軍に対して徹底的な持久戦を挑み、一日でも長くその場に釘付けにして、日本の防衛態勢を整える時間を稼ぐことが求められたからだ。
死闘の末の11月24日、玉砕を伝える最後の暗号文「サクラ、サクラ」が司令部に打電され、守備隊長の中川州男大佐(第2連隊長)と第14師団派遣参謀の村井権治郎少将が洞窟内でそろって自決。組織的な戦闘は終結したが、残存日本兵34人は終戦後も日本の敗北を信じず、昭和22(1947)年4月まで抵抗を続けた。
守備隊には、昭和天皇のご嘉賞の言葉が何度も伝えられ、米軍から「天皇の島」と呼ばれたペリリュー。生還した元兵士に、その島で見たものを聞いた。
聞き手:社会部 安田剛史
編集:時事ドットコム編集部
(2015年4月8日)
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