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【特集】波乱万丈 野村克也

出発はテスト生

 野村克也は1935(昭和10年)年6月29日、京都府竹野郡網野町で生まれた。貧しい家に育ち、新聞配達をしながら家計を助けた。3歳の時、父親が戦死。小学生の頃に母親が2度がんを患ったこともあり、一家はどん底の生活に。「あした食べる飯にも苦労する生活だった」と野村は言う。

 「野球」に出会ったのは網野中時代。よほど性に合ったのか、当時から捕手をやっていた。中学卒業と同時に働きに出ることになっていたが、兄の後押しもあって峰山高へ進学。甲子園大会出場などの目立った活躍はなかったが、「金持ちになりたい。母親を楽にさせてあげたい」との一念でプロ野球選手への道を目指した。

 高校卒業後、54年に南海に入団。当時の学校関係者に南海の鶴岡一人監督と親しい人がおり、テストを受けさせてもらうことができた。「本当は巨人に行きたかったが、当時の捕手のメンバーを見ると巨人には自分が入る余地はないと思った」と野村。南海は狙って入った球団だったが、1年目のシーズンオフに早くもクビになりかけた。

 「お前には素質がない。早く職を替えた方がいい」と球団の課長に言われた。これに対し野村は、たった1年で何がわかるのか-と問い、自分はさらに努力をして必ず一軍に上がって見せる-と訴えた。最後には「本当にクビにするなら南海電車に飛び込んでやる」と。二十歳に満たぬ少年ながら、当時から話術には長けていたようだ。脅しが効いたか、解雇の話は立ち消えになり、投手の球を受けるだけの「カベ」として残してもらった。後年、その課長が野村に、「人間いうんは分からんもんやな。いい勉強させてもらったワ」と笑いながら話したという。

 3年目の56年、ハワイキャンプで一軍に抜てきされた。捕手陣が次々と故障する幸運もあって出番が増え、攻守ともに頭角を現した。「このキャンプで一番の収穫や」と鶴岡監督に言われた。入団時から一升瓶を振って手首を鍛えるなど、地道な努力も実った。

  ◇52本塁打と三冠王

 入団4年目の57年から4番打者に。この年30本塁打を放ち、初めて本塁打王のタイトルを獲得した。61年から8年連続本塁打王。63年には小鶴誠(松竹)が持っていた当時の日本記録51本を上回る52本塁打を放った。新記録は、シーズン最終の近鉄戦、最終打席で山本重政から。「ホームランなんて狙って打てるものではないが、あの時だけは狙った」と野村。苦労してつくった記録も、翌年王貞治(巨人、55本塁打)にあっさり塗り替えられてしまうのだが…。

 65年には、打率3割2分、42本塁打、110打点で戦後初の三冠王に輝いた。効率のいいことに、生涯ただ一度の首位打者のタイトルを取った年でもあった。カーブが苦手だったが、懸命の努力で克服した。相手投手の研究も重ね、振りかぶった時にのぞく腕の血管の形から球の握りを判読した。三冠王を阻むべく、挑んできたのはスペンサー(阪急)。終盤まで激しくタイトルを争ったが、相手が交通事故で戦線を離脱する幸運にも恵まれた。

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