日本時間の1941年12月2日、日本海軍連合艦隊司令長官の山本五十六は、北太平洋上を航行中の機動部隊に対し「新高山登レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」という暗号電を送信した。この暗号は同12月8日に米国ハワイの米軍艦艇、施設、基地を攻撃せよとの命令で、航空母艦(空母)6隻を含む機動部隊はただちに攻撃準備を開始した。
もちろん、開戦は唐突に決まったわけではなく、この段階で日米関係は抜き差しならぬ状況に陥っていた。39年7月、米国は中国での日本の軍事行動が長引いていることを理由に対日経済制裁を発動、鉄鋼や石油など多くの物資を米国からの輸入に依存していた日本経済は大打撃を受けた。40年になると米国は航空機用ガソリン、くず鉄の禁輸も決め、41年11月26日には中国からの完全撤退などを求めた事実上の最後通告「ハル・ノート」を突き付けた。
日本海軍機動部隊は、ハル・ノート提示と同じ日に択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出発。密かにハワイ北方海域へ向かっていた。
空母機動部隊を編成し、米太平洋艦隊の本拠地を航空戦力でたたくというハワイ攻撃作戦は、山本五十六連合艦隊司令長官の発案だったとされる。
当時、各国海軍は艦隊同士の砲撃戦で勝敗を決する戦いを「常道」と考え、航空部隊は補助的戦力としか位置付けていなかった。強力な航空打撃力を備えた空母機動部隊を編成するという発想を持っていたのも日本と米国だけだったが、米国にも日本がいきなりハワイを襲う可能性を考える者はほとんどいなかった。しかも、太平洋艦隊の根拠地であるオアフ島の真珠湾は水深が12~14メートルしかない。投下後いったん数十メートルの海面下に沈んでから徐々に浮上し、目標に向かう航空魚雷での攻撃は困難と思われていた。
日本海軍は魚雷の沈下を抑える安定装置を開発、これを装着した魚雷を水面からの高度5メートルで投下すれば、真珠湾の水深でも魚雷攻撃が可能であるとの結論に至った。海軍の艦上攻撃機部隊は、超低空を飛行する猛訓練を重ねて搭乗員の技量を高め、世界で初めて浅深度での航空魚雷攻撃を可能にした。
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