東海道新幹線が1964年10月1日に開業してから、ちょうど50年。東京オリンピック開幕を目前に控えた64年のこの日午前6時、「ひかり1号」が新大阪駅に向け東京駅のホームを滑り出した。
それから半世紀。高度経済成長、オイルショック、バブル景気と崩壊、失われた20年…。日本の大動脈は、分割民営化で国鉄からJR東海に引き継がれても、ビジネスマンや旅人を乗せて激動する時代を走り続けた。その総数は55億人に上り、幾多のドラマが演じられる舞台となった。「夢の超特急」のいくつかの場面をのぞいた。
◇特別な空間、走るレストラン
東海道新幹線の50年の歴史の中で、旅に彩りを添えた食堂車。愛されながらも、2000年に姿を消した。新幹線が現在のような「日常の足」になる前、景色と食事を同時に楽しめる「走るレストラン」は、ちょっとした特別な空間だった。
登場は、岡山―博多間開通前年の1974年。東京―博多間は約7時間。駅周辺で手軽に食べ物を調達することがまだ難しかった時代、乗客にとって食堂車は、温かい物を食べられる唯一の選択肢だった。
営業開始から終了までの間、「日本食堂」のコックとして何度も乗務した宇都宮照信さん(64)=九州鉄道記念館副館長、福岡市早良区=は「食堂車は列車のオアシスだった」と懐かしむ。
食事の記念写真を撮る人。孫に食べさせて、うれしそうに笑顔を浮かべる家族旅行の女性。「ぜいたく気分を味わえて、話の種にも欠かせなかったのでは」。忙しそうなビジネスマンも、景色を見ながら話をし、和んでいた。
人気メニューはハンバーグやシーフードのミックスグリル。カレーライスやカキフライも定番だった。85年に導入された2階建て車は、1階が調理室で2階が食堂。4人掛けテーブルが窓に沿って並び、屋根まである窓からの眺めの良さで評判も良かった。
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