―やりたかった企画はありますか?
山ほどあります。やってはいけない理由があったからやらなかった。やめると言いながら、こういうのやったらどうなのか、頭を出たり入ったりするけれど、人に語るものではありません。
―思い入れのある自作は?
一番トゲのように残っているのは「ハウルの動く城」。ゲームの世界なんです。でも、ゲームではなくドラマにしようと思い、本当に格闘した。スタートが間違いだったのかもしれないが、自分が企画したのだから仕方ありません。
―アニメでこういうメッセージを伝えたいと意識したことは?
僕は児童文学の多くの作品に影響を受けて、この世界に入った人間。子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが、自分たちの根幹になければいけないと思い、仕事をしてきた。それは今も変わっていません。
―つらかったことや、アニメを作ってよかったことは?
つらかったのはスケジュールで、どの作品もそうでした。終わりまで分かっている作品を作ったことがない。「こうやって映画が収まっていく」という見通しがないまま(製作に)入る作品ばかりで、毎回ものすごくつらかった。最後まで見通せる作品は僕がやらなくていいと勝手に思い込んで、シナリオを書いたりしました。
1年半とか2年という間に考えることが、自分にとって意味があった。同時に、カットを見て、自分でいじくっていく過程で映画への理解が深まり、先を考えるようになったのは確か。そのように生産性とは関係ない方法でやっていたが、つらいんですよ。そういう仕事でしたね。
逆に「アニメーターになってよかった」と思ったことは何度もあります。何でもないカットが描けたとか、風をうまく描けたり、水の処理がうまくできたりとか。そういうことで2~3日は幸せになれるんです。アニメーターという職業は、自分に合っていたと思います。
ただ、監督や演出をやろうとした人間ではなかったですね。監督はスケジュールが遅れると、会社に呼び出されて始末書を書かされる。(宮崎監督の盟友の)高畑勲監督は始末書をいくらでも書いていましたよ。そういうのを見るにつけ、僕は監督はやりたくない、やる必要はない、「映像をやっていればいいんだ」と思った。しかし、ある時期が来て、「一人で演出をやれ」と言われたので、本当に途方に暮れました。その戸惑いは「風立ちぬ」まで引きずってきた。映画の演出をやろうと思ってやってきたパクさん(高畑監督)の修行と、絵を描けばいいんだと思ってきた僕の修業は、全く違うものだったんですね。
途中、高畑監督に助けてもらったこともありますが、プロデューサーがずいぶん補佐してくれたし、チームや腐れ縁があったおかげで、やってこれた。決然と立って孤高を保っている監督ではありませんでした。
―達成感、悔いが残っていることは?
その総括はしていません。手抜きした感覚があったらつらいだろうが、(1作ごとに)たどり着けるところにたどり着いたと、いつも思っていました。だから、終わった後は、その映画を見なかった。振り向かないようにしていました。
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