日航ジャンボ機墜落事故は、27年目の鎮魂の夏を迎えた。
航空史に残る大惨事は、発生以後、事故原因のほか犠牲者や家族らをめぐって大量の報道がなされた。報道するマスコミと報道される事故関係者の間、取材の陰には日本航空の広報部員がいた。
複数の当時の日航広報部員が時事通信のインタビューに応じ、苦しかった当時や企業広報について語った。(2012年8月)
《1985年8月12日。乗客乗員524人を乗せ羽田空港を午後6時12分に離陸した大阪行き日航123便ボーイング747SR―100型機(機体番号JA8119)が、飛行中に操縦不能に陥った。32分間の迷走の後、同56分に群馬県上野村の御巣鷹山の尾根に墜落。520人が死亡した》
報道課長だった吉田敏夫(66)は、関連会社の社長就任パーティーで東京都港区のホテルにいた。到着したところで、役員たちのポケットベルが一斉に鳴った。「『R5ドアがブロークン(壊れた)して羽田にターンバックする(戻る)』と。大事にはならないだろうということだったが、すぐまたポケベルが鳴った。それで『123便がレーダーから消えた』と」。吉田はすぐにタクシーで本社に向かった。
元広報部員(63)は、たまたま早く帰宅し、午後6時半ごろ自宅に着いた。くつろいでいると、電話が鳴った。本社からだった。「今もあの言葉は忘れられない。『123便がレーダーから消えた』」。だめだ、と直感した。
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