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86歳長老記者が見た1964年東京五輪の記憶

ご当地の有望選手を追う

 アジアで初めてのオリンピック開催となった1964年の東京五輪は、それを報道する側にとっても歴史的なビッグイベントだった。神戸新聞の運動記者として同五輪に乗り込んだ力武敏昌(りきたけ・としまさ)さんは、86歳の今も陸上競技を軸に現場で取材し、健筆を振るう。長老記者が56年前の貴重な体験を思い起こした。(時事通信社 小松泰樹)

◇ ◇ ◇

 64年10月10日、国立競技場での開会式。力武さんは快晴の上空を見上げ、鮮やかな「五輪の輪」に感心した。航空自衛隊の曲技飛行チームが煙で描いた傑作に見とれたという。

 翌11日、水泳・飛び込みの取材が始まった。ターゲットはご当地選手、神戸市出身の馬淵かの子。女子板飛び込みの予選を通過した。競技は午前中。これを夕刊に掲載するため、記事送稿は自分の目で見た状況や情景を電話でデスクに伝える手法だった。

 馬淵(旧姓津谷)は56年メルボルン五輪、60年ローマ五輪を経験。ローマでは男子飛び込み代表の馬淵良とロマンスの花を咲かせ、その後結婚した。力武さんは「彼女の空中姿勢はスケールが大きかった。東京五輪を集大成と位置付け、選手として脂がのっていた」と振り返る。メダルを目指すも決勝で7位。入賞(当時は6位まで)にも一歩及ばなかった。

 力武さんによると、一言で表せば調整ミス。飛び込み陣は正月も返上するなど合宿に次ぐ合宿を敢行した。陣営の意気込みが空回りした格好で、オンとオフがない選手のコンディションは心身ともに崩れていたようだ。

「レジェンド前畑」と懇談

 飛び込みから競泳へと日程が進んだある日。午前の競技スケジュールから時間が空き、力武さんが昼食を兼ねて競技場の外に出ようとしたら、出入り口の係員に拒まれた。他の報道陣が出払っていたせいなのか、別の理由があったのか。「PRESS」の腕章を示しても、係員は首を横に振った。

 押し問答のようなやりとりをしていると、たまたま通りかかった女性に「どうしたのですか」と声をかけられた。公式ブレザーを着用していた兵藤秀子さんだった。旧姓前畑。36年ベルリン五輪の競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した「前畑がんばれ!」で知られるレジェンドだ。

 「じゃあ、私のブレザーを貸しましょう。これを着ていたら(フリーパスで)大丈夫。後で返してくれればいいですから」と助け船を出してくれた。力武さんは「ありがとうございます。でも、さすがにブレザーをお借りするのは…」。感謝と恐縮の気持ちを伝えた。すると兵藤さんは「ならば、一緒にスタンドでお昼ご飯を食べましょう」と誘い、「さあ、どうぞ」と大きなおにぎりを差し出してくれた。

 思わぬランチ懇談となり、話は重圧と闘ったベルリン五輪での心境に及んだ。力武さんによれば、兵藤さんは「あの時のプレッシャーは本当にすごかった。勝ててホッとしました。金メダルを取れなかったら日本に帰れないと思っていましたから」と述懐。プールを見下ろしながら、忘れられないひとときを過ごした。

 水泳競技の最終日。ここまで、まだ日本勢のメダルがない。迎えた競泳男子800メートルリレー。日本選手団の旗手を務めた福井誠らで構成する日本チームが3位に入り、銅メダルを獲得した。記者席から歓声が上がった。選手頼みと分かっていても、五輪の取材記者にとって待ち望んでいた瞬間だ。「やはりうれしかった。日の丸を見て、(同業他社の)皆が口々に『やっと揚がったな』と喜んでいた」

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