初めて出場したパラリンピックは84年、ロサンゼルス五輪に合わせて行われたニューヨーク大会だった。ハリウッドのように華やかな五輪と違って簡素で、競技場の半分は空席だった。
その後、パラリンピックの認知度は大きく変化した。92年のバルセロナ、2000年のシドニー大会での観客の情熱は素晴らしいものだった。
12年のロンドン大会になると競技場は超満員で、メディアや市民のサポートもかつてない規模となった。人々は(陸上、水泳でそれぞれ一時代を築いた)ウサイン・ボルトやマイケル・フェルプスについて話すように、パラリンピック選手を語るようになった。
パラリンピックのレガシー(遺産)は、障害を持つより多くの人々を積極的にし、社会改善への貢献を可能にしたことだ。東京大会は(日本パラリンピックの父と呼ばれる)故中村裕氏が60年代初頭に始めた、スポーツや教育、技術革新を通じて障害者の可能性を最大限に高める日本の取り組みの「頂点」と位置付けられるだろう。
世界に勇気と希望を
五輪とパラリンピックの開催延期は、世界と日本のコミュニティーの安全を考えれば間違いなく適切な判断だ。64年に東京パラリンピックが開催されて以来、日本は多様性と進歩的な社会を持つ国になってきている。困難な自然災害が起きても、どのような難問が起きても、前向きに頑張っている。
21年、新国立競技場のスタートラインに立つすべてのパラリンピック・アスリートを見てほしい。このスタートラインに立てる者は不撓(ふとう)不屈の精神を持ったアスリートであり、日本中、世界中の人々に希望と勇気を与えることになるだろう。
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【ノエル・サッチャーさんの略歴】 視覚障害を抱えて生まれる。83年、17歳で出場した初の国際大会、欧州選手権400メートルで銀メダル。パラリンピックでは6大会で金メダル5個、銀2個、銅3個を獲得した。日本と関わりが深く、青島太平洋マラソンやかすみがうらマラソンに招待参加した。09年にイングランド陸上殿堂入り。54歳。南ロンドン出身。夫人は日本人。
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