新型コロナウイルスの大流行を受け、五輪とともに延期が決まった東京パラリンピック。
1984~2004年のパラリンピック全6大会で陸上競技に出場し、金メダル5個を獲得した英国の理学療法士ノエル・サッチャーさん(54)は、延期という困難を乗り越えた東京大会こそ、疫病で大きな被害を受けた世界各国の復興への「懸け橋」になるだろうとエールを送る。
困難を克服してきた自身の軌跡や東京大会の意義を聞いた。
(2020年4月2日配信/ロンドン支局長・片山 哲也)
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私は生まれてくる際、十分な酸素が視神経に流れず、視神経細胞と網膜が永久的破損を受けた。右目はほとんど見えず、左目は拡大鏡を使えば文字を読むことができる。拡大鏡を使わずにどれくらい見えるかを明確に説明するのは難しいが、人の容姿や色はだいたい分かる。
10歳の時、コベントリーにある視覚支援学校に入学した。全寮制の由緒ある名門進学校で、毎年、ケンブリッジ大やオックスフォード大に進学する生徒もいた。
校長のジョージ・マーシャルさんは視覚障害のある子供たちの教育発展の第一人者として、エリザベス女王から勲章を授与された。軍隊出身のマーシャル校長はいつも私たちに「視覚がある人と同じ成功を成し遂げたいなら、君たちはその3倍の努力が必要だ」と言っていた。
極限下の金メダル
競技人生で最も思い出深いのは、1万メートルと5000メートルで金メダルを取った96年のアトランタ・パラリンピックだ。大会3週間前、日本でのトレーニングが終盤に差し掛かったころ、50キロの走り込み中、左足のすねに突然、強烈な痛みが走った。疲労骨折だった。
監督と医療チームは私を大会から外すことを考えたが、私は強く反対した。大会のために私は仕事をやめ、いろいろなものを犠牲にしていた。頑張るしかなかった。さらに最悪なことに、1万メートル決勝の10日前、ガイドランナーが辞めてしまい、1人で走らなければならなくなった。
それでも私はスタートから飛び出して独走し、がむしゃらに走って優勝した。世界新記録だった。ゴール後は痛みがひどく、歩くこともままならなかったが、3日後の5000メートルでも金を獲得した。マラソンにも出て三冠を達成したかったが、骨が完全に折れてしまうかもしれないとドクターストップがかかった。
この成果は大いにメディアの注目を集めた。パラリンピック選手が英国でついに認められたのだと実感した。ある日、チャールズ皇太子から電報が届いた。「けがをしたにもかかわらず、金メダルを2つも勝ち取り、国民に勇気と希望、そして感動を与えてくれてありがとう」と感謝のメッセージがつづられていた。
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