日本人、海外受難簿

ペルー大使公邸占拠事件

 1996年12月17日、在外公館の最重要行事である天皇誕生日祝賀レセプションを行っていた在ペルー日本大使公邸に、覆面姿の左翼ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)メンバー14人が侵入、ペルー政府要人や日本人現地駐在員ら600人以上を人質にとった。

 その後、人質は順次解放されたが、犯人との交渉は決裂。127日後の4月22日に特殊部隊が密かに掘削を進めていたトンネルなどから進入して銃撃戦となり、MRTAは14人全員が死亡、さらに、72人に減っていた人質のうち1人が死亡、特殊部隊員2人も犠牲となった。 

 突撃を指揮、成功させた日系のフジモリ大統領の決断は国際的には賞賛されたが、国内での政争には敗れ2000年に日本に亡命。最後まで人質となった青木盛久大使も、帰国後は毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする評価を受けた。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)

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