稀勢の里、苦闘の日々

【土俵百景】出稽古論争

 ◆部屋で強くなった横綱

 白鵬が2場所ぶり10度目の優勝を全勝で飾って幕を閉じた春場所、5勝10敗に終わった新関脇稀勢の里をめぐって、出稽古の是非がちょっとした話題になっている。武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が、記者クラブとの懇談会の席で、伸び悩んでいる稀勢の里について「出稽古をした方がいいのでは」と指摘。他の部屋へ出掛け、いろんな相手と稽古すべきではないかとの感想を語ったのが、きっかけだった。
 相撲部屋と相撲協会の関係は、商店と商店街の組合の関係に例えられる。いわば理事長は商店街の組合の会長さんみたいなもので、取りまとめ役ではあるが、それぞれの店の経営方針にまで口を挟む立場ではない、というのが一つの考え方だ。だから、不祥事でもあったのならいざ知らず、理事長が他の部屋の稽古方針に表立って異論を唱えることは、あまりない。両横綱と他の力士の力の差が大き過ぎる現状にあって、稀勢の里への期待の大きさと歯がゆさから出たのだろう。
 稀勢の里の師匠は、元横綱隆の里の鳴戸親方。現役時代は糖尿病を患い、辛酸をなめながら29歳で大関、30歳で横綱に昇進した。苦労に耐えた姿を超人気テレビドラマになぞらえて「おしん横綱」と呼ばれた。
 隆の里はほとんど出稽古をしなかった。ある時、行こうとして師匠に呼び止められたという。「隆の里、どこへ行くんだ」「出稽古に…」「誰が若い衆に稽古をつけるんだ」
 強くなったら、今度は部屋の若い者を鍛え、後に続くよう育てるのが関取衆の役目。その関取衆が外へ出掛けては、若い者が育たない。師匠はそう言いたかった。
 隆の里の師匠は、「土俵の鬼」と呼ばれた元横綱初代若乃花の二子山親方(当時)。現役時代、出稽古をしなかった。その代わり、部屋で何十番でも取った。親方になってから、「私は稽古が好きだったからね」と話す顔が、うれしそうだった。
 若い頃は二所ノ関部屋で力道山らと猛稽古を重ね、師匠が独立して杉並区の阿佐ヶ谷に部屋が移ってからは、同じ部屋の若秩父らと激しい稽古をした。相手は毎日同じでも、土俵際に詰まって俵に足が掛った状態から相手に押させ、残して盛り返す稽古をするなど、工夫をしたという。
 二子山部屋を興してからもそうした考え方で、2横綱2大関をはじめ多くの関取を育てた。関取同士の申し合いだけでなく、土俵際に立った隆の里を、若い者が2人掛かりで押す稽古などもさせた。

 ◆出稽古派の千代の富士

 鳴戸親方の方針は、師匠の教えと自らの経験に基づいている。出稽古はしなくとも、鳴戸部屋の稽古は番数が多いし、しこ、てっぽう、ウエートトレーニングなどにも時間を割く。
 一方で、出稽古で強くなった力士がいる。今の親方衆の世代で代表的な力士は千代の富士だ。稽古相手を求めてあちこちの部屋へ出向いては、「さすらいのウルフ」と呼ばれ、巨漢小錦が登場してからは主に高砂部屋へ通った。高砂部屋には、高見山や富士桜こそもう晩年だったが、朝潮、水戸泉といった大型力士がいて、そこへ立浪部屋から北尾(のち双羽黒)、大島部屋から旭富士もやってきた。
 現在では朝青龍が、境川部屋や春日野部屋へ出向き、豪栄道や栃煌山らと稽古をしているが、元横綱千代の富士の九重親方は「本当は、若手の方から横綱のところへ行かなきゃ駄目なんだ」と言う。
 ただ、強い相手や研究したい相手を求めて行くのだから、いいことずくめかといえば、決してそうでもない。外へ出て自分の師匠の目を逃れられるのをいいことに、サボるために出稽古に行く力士も中にはいる。せっかく来たのに積極的に土俵へ入らず、「カマボコ」を決め込む。「カマボコ」とは角界の隠語で、稽古場のはめ「板」に「張り付いて」稽古しない力士のこと。そんな気配を察知してか、最近ある幕内力士の師匠が、弟子の出稽古先へこっそりやって来て、「うちの、来てる?」と確かめたことがあった。
 サボるために行くのは論外としても、関取衆が集まって人数が増えればおのずと番数が限られ、行く先の部屋が遠ければ移動に時間が掛かるデメリットがある。鳴戸親方は「いろんな相手と稽古するなら、巡業でできる」とも指摘して、持論を崩さない。かつて、テープが擦り切れるほどビデオを見て対千代の富士の作戦を練った経験もある。
 ただ、その時々で部屋の事情は異なる。かつての二子山部屋は阿佐ヶ谷にあって、両国まで出掛けるわけにいかなかったし、そうそうたる顔触れの関取衆がいて、稽古相手に不自由しなかった。同じ阿佐ヶ谷の放駒部屋だった大乃国は、歩ける距離の二子山部屋へ通って強くなった。
 出稽古の是非は、何ともいえない。早い話が、強くなれば何もいわれないのだから、鳴戸親方も稀勢の里本人も、忸怩(じくじ)たる思いだろう。悪いことに、鳴戸部屋では稀勢の里以外の唯一の関取であるベテラン若の里が、春場所中に足を骨折してしまった。満開の桜を横目に、師弟にとって「おしん」の日々が続きそうだ。(時事通信社・若林哲治「土俵百景」から)
(2009.4.3配信)

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