稀勢の里、苦闘の日々

新横綱を待ち受けるもの 「鬼」と「おしん」と稀勢の里(下)

 ◆頭を抱えた「鬼」

 しかし、稀勢の里だけではない。過去の横綱たちはみんな、経験者でなければ分からない重荷を背負ってきた。「鬼」の若乃花は、昇進が決まって「困った、困った」と頭を抱えたという。親兄弟の生活がかかっているのに、横綱は横綱らしい星を残せなくなったら引退しかない。イチローやカズのような選択肢はない。千代の富士は昇進決定の日、師匠(元横綱北の富士)から「辞める時はすっぱり辞めような」と言われた。
 横綱になると、物を言ってくれる人が少なくなる。孤独だ。特に稀勢の里は今の師匠、田子ノ浦親方が元前頭の隆の鶴で、先代とは違い過ぎる。八角理事長(元横綱北勝海)ら協会幹部が進んで技術の指導に当たることもない。相撲協会は幹部も他の親方衆と同様、自分の部屋を持つかどこかの部屋に所属するかしていて、弟子の指導はそれぞれの責任だからだ。
 幸い、同じ部屋には元気な高安がいる。高安を大関にするための稽古が、稀勢の里の横綱としての成績も寿命も伸ばすことになる。巡業や出稽古では、横綱として手本を示し、部屋や一門を問わず後輩を鍛える立場になる。何も言われない代わり、常に四方八方から見られることが、自分を律し、もう若くないからこそ重要な基本動作の反復にも取り組める。
 左のおっつけは一級品。おっつけから左を差して組み止め、落ち着いて体を正対させながら上手を取って寄った時は強い。昨年あたりから増えた取り口だ。意外に逆転勝ちも多い。決して褒められはしないが、横綱とて先手を取られることもあるから、安定した星を残すには必要なことなのだ。
 稀勢の里は不器用で、前さばきも左差しもうまくない。先代師匠が「根は四つ相撲だと思うんだけどね」と言いつつ、長らく突き押しを磨かせたのは、左四つに持ち込む手段を模索してのことではなかったか。おっつけは、そうした試行錯誤の中で身に付いた。
 逆転勝ちにも、脈々とした教えが生きている。「鬼」の二子山親方は、「前へ出ろ」ばかり言う親方衆が多い中で、土俵際に攻め込まれた時に「残れ、残れ」と気合を入れた。隆の里が俵に足をかけた状態から若手に押させる稽古をするのを何度も見た。先代師匠が稀勢の里について、盛んに「流れが悪くなったときのひらめきが必要なんだよ」と言っていたのが、分かった気がする。芝田山親方は昇進後の稀勢の里について「まず今は、とにかく勝っていけば、そうすれば何とかなっていく」と話す。

 ◆アメリカの年

 授かった財産を横綱として花開かせるために、最後は自分で考えるしかない。先代師匠の生前、花道から支度部屋への通路にあるNHKのモニターが話題になった。先代の現役時代にはなかったが、今の力士はみんな立ち止まってリプレーに見入る。「あんなもの見なくても、僕は土俵を降りて支度部屋へ戻るまでの間に、今の相撲のどこが良くてどこが悪かったか、頭の中で整理がついていた。横綱・大関はみんなそうなんじゃないの。稀勢の里にも言うんだよ。自分で考えなさいって。土俵の上では一人だよって」
 30歳を過ぎれば、どんな力士でも腰を割って前傾姿勢を保つのがきつくなる。これから腰高を直すのは容易ではないが、稀勢の里はまだ大きなけがや内臓疾患をしていない。稽古の量では若い頃並みを望めなくとも、体を鍛え直す工夫はできる。
 「品格」や、「日本出身横綱」としての伝統文化継承も期待されているが、「日本出身力士」が絶えていたのも伝統継承も、稀勢の里一人の問題ではない。謙虚に学び、誠実に行動すれば、人はそれを「品格」と呼ぶ。難しく考える必要はない。横綱は各界の著名人との交流も増える。王貞治さんらと親しかった大鵬さんはよく「一流の人たちとの出会いが、どれほど自分を成長させてくれたか」と話していた。稀勢の里が見てみたいと言っていた「頂上からの景色」が、目の前に開けてくる。
 隆の里が横綱に昇進したのは、稀勢の里より遅い30歳9カ月の時だった。糖尿病を克服した苦難の道のりから付いたニックネームが「おしん横綱」。83年7月、昇進決定の日、師匠の「鬼」が言った。
 「高谷(隆の里の本名)は32か。アメリカの年なら30だ。まだまだ、これからだ」
 数え年で32歳、満年齢で30歳という意味か。野太い声で豪快に言うので、思わずクスリと笑ってしまった。今あの世で、愛弟子と一緒に孫弟子の土俵入り姿に目を細めて、言っているだろう。
 「おい高谷、稀勢の里もアメリカの年なら30か。まだまだ、これからだ」
(文中の肩書は当時)(時事通信社・若林哲治)
(2017.1.27配信)

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