第4回ロンドン(1908年)
ローマが開催地を返上したため、ロンドンでの代替開催となった。最大の特徴は、前回までの個人またはチームによる参加が、各国内オリンピック委員会(NOC)を通して行われるようになったこと。また、開会式の入場行進が初めてABC順の国別で行われ、国名のプラカードと国旗も掲げられた。
マラソンでは、ふらふらになりながら1位で競技場に入ってきたドランド・ピエトリ(イタリア)が、競技役員の助けを借りてゴールしたとして失格となる悲劇があった。
陸上では地元英国と米国の対立から男子400メートルのレースをめぐって紛糾。これを憂慮した米国の主教が「オリンピックで重要なのは、勝利することより参加したということであろう」と説教。クーベルタン男爵が後にこれを引用して演説したことから、今日まで言い伝えられる有名な五輪のスローガンとなった。
【その時世界は】
中国大陸ではこの年、清朝の最高実力者として君臨してきた西太后が死去し、「ラストエンペラー」こと溥儀が第12代清朝皇帝に即位した。神戸港からは笠戸丸がブラジル移民の第1陣を乗せてサントス港に向かった。米国で排日運動が高まり、移民先が南米に。その米国ではヘンリー・フォードが「T型」自動車の大量生産を開始、本格的な自動車時代の幕開けとなった。
〔主要参考資料〕近代オリンピック100年の歩み(ベースボールマガジン社)、最新スポーツ大事典(大修館書店)、オリンピックの事典(三省堂)、国際オリンピック委員会の百年(IOC)、日録20世紀(講談社)、JOCホームページ
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