図解
※記事などの内容は2018年2月27日掲載時のものです
東京電力福島第1原発事故で打撃を受けた福島県の農業。同県二本松市東和地区(旧東和町)に、事故直後から放射能汚染と向き合い、耕作を続けた農民と、これを支えた研究者たちがいた。復興への希望を確信に変えたのは、放射性セシウムを吸着・固定し、作物への吸収を抑える福島の土の力だった。
◇作付け継続を決定
震災直後の2011年5月7日、日本有機農業学会の有志約20人による現地調査団が同地区を訪れた。農民らでつくるNPO法人「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」からは、それまで約80カ所で空間線量を測定し、議論の末に「今年も作付けしよう」と決めたことが報告された。「ここで安全に暮らせる方法を一緒に考えてほしい」という大野達弘理事長(当時)の要請に、研究者は協力を誓った。
東和町は1970年代まで県内有数の養蚕地帯だったが、その後の衰退に危機感を抱いた大野さんらが有機農業を柱にした地域づくりを主導。二本松市と合併する05年にNPO法人を設立、翌年には道の駅の運営を市から任された。
研究者側のリーダー役となった野中昌法新潟大教授はさっそく隣県の福島に通い始め、「主役は農民、研究はサポート」との方針で他大学と連携した研究計画の作成などに入った。
◇驚きの検査結果
夏に野菜が取れ始め、秋にはコメが収穫された。農民たちは支援者から提供された測定器で農作物の放射線量を測った。野生キノコなど一部を除き、当時の食品の暫定基準値(1キロ当たり500ベクレル)を下回った。12年には基準値が同100ベクレルに強化され、県がコメの全量全袋検査を始めた。コメが基準値を超えたのは約1000万袋のうち71袋だけで、99.8%ものコメが同25ベクレル未満だった。
結果に農民も研究者も驚いた。土壌学が専門の野中さんは先人の研究に学び、土には、飛散し今も残る放射性物質のほとんどを占めるセシウムを吸着・固定する力があることや、放射性セシウムは性質の似たカリウムが豊富な土では植物に吸収されにくいことなどを農民に説明してきた。研究者は土の力をより深く理解し、農民の不安は自信に変わった。
新潟大のチームは12年2月、農民たちが測定した1200カ所の空間線量データを農地ごとに色分けしてマップ化。6カ所の水田で水の流れと汚染の関係を継続調査した。13年から南相馬市や飯舘村にも調査範囲を拡大、福島大との連携も一層進んだ。
◇受け継がれる精神
17年11月、福島大で行われたシンポジウムに約120人の研究者や農民が集まった。同年6月に63歳で亡くなった野中さんを追悼し、その遺志をこれからの復興や研究に生かすためだ。福島大は来年春に食農学類(仮称)の開設を計画しているが、野中さんは設置準備室長として招かれるはずだった。病気が見つかり、入退院を繰り返してもなお福島の現場に通い続けた。
シンポジウムで石井秀樹福島大特任准教授は「野中先生が示した総合性や現場性を重視し、新しい農学部をつくる気概で進む」と力強く語った。土の力を信じ、農民と共に歩んだ野中さんの精神は受け継がれていく。
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