図解
※記事などの内容は2016年12月12日掲載時のものです
日ロ間の長年の懸案で、15日の首脳会談でも焦点となる北方領土は、旧ソ連が日ソ中立条約を破棄して終戦直後に占領し、後継国家のロシアが不法占拠を続けている。日本政府は江戸時代から統治し「一度も他国領になったことのない固有の領土」として返還を求めているが、ロシアは「第2次世界大戦の結果、自国領になった」と主張しており、双方の立場には大きな隔たりがある。
北方領土の日本統治は17世紀ごろ始まった。蝦夷地(北海道)を支配した松前藩が調査隊を派遣し、1644年には「クナシリ」「エトホロ」などの島名を記載した地図を幕府に提出。18世紀にロシアが南下を始めると、幕府は最上徳内らに調査させた上で択捉島などに番所を設置している。
1855年の日露和親条約では、択捉島とその北のウルップ島の間が国境として初めて明記され、4島を日本領と確定。明治維新後の75年、樺太千島交換条約でウルップ島から北の千島列島全島を、1905年のポーツマス条約で南樺太を獲得、4島は一貫して日本の版図だった。
状況が一変したのは45年8月。終戦直前の同9日に中立条約を破って日本に参戦したソ連軍は、日本がポツダム宣言を受諾した後の同18日から千島列島への侵攻を開始。9月5日までに4島は全て占領された。
ソ連が戦後も実効支配を続けてきた背景には、「千島列島はソ連に引き渡される」と明記した米英ソによる45年2月のヤルタ協定がある。戦後、日本側が領土問題を取り上げると、ソ連は同協定を盾に反論してきた。
日本が主権を回復した51年9月のサンフランシスコ講和条約署名の際、日本政府は「千島列島の権利、権原および請求権を放棄する」と宣言した。条約署名の前後、外務省の条約局長らが国会で「南千島は千島に含まれる」などと、北方四島を放棄したとも受け取れる答弁をしたこともある。
だが、日本政府は条約発効後の56年に「日本固有の領土である4島は千島列島には含まれない」と主張。同年の日ソ共同宣言には、平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しが明記されたものの、冷戦期の東西対立を背景に米国が反対し、実現に至らなかった。
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