図解
※記事などの内容は2019年5月30日掲載時のものです
中国で学生・市民を武力弾圧した天安門事件から3日後の1989年6月7日、北京中心部・建国門の大通り・長安街を通過中の人民解放軍部隊が、外交官アパートなどに向けて無差別に銃を乱射した事件があった。アパートの日本大使館員の部屋では洗濯して中に干していたポロシャツの心臓部分を弾丸が貫通。なぜ各国外交官らを標的にしたのか、いまだ謎が多い。
◇弾痕だらけの部屋
当時日銀から日本大使館に派遣されていた露口洋介氏=現・帝京大教授=(61)は今も、穴の開いたポロシャツ、部屋内で跳弾した弾丸、弾痕だらけの部屋の写真の3点を大切に保管している。露口氏は長安街に面した外交官アパート一号棟(9階建て)の7階に居住。当日午前10時ごろ、100メートルほど離れた大使館内で勤務中、突然、「バリバリ」という爆音が起こった。近くで発砲があったと思い、伏せたほどだった。
夕方帰宅して驚いた。「独身で幸い誰もいなかったが、30発ほど入っていた。窓にはめ込まれた空調は撃たれて火花が飛び、部屋の壁は跳弾でえぐれ、じゅうたんは崩れた壁のしっくいが散乱。ポロシャツを干した場所に立っていたら死んでいたかもしれない」。他の館員の部屋では、軍が長安街を通る様子を子供が窓から見ていたところ、その上を弾丸が飛んだ。
当時防衛駐在官の笠原直樹氏(69)も、自分が住む別の外交官アパートの窓から、兵士を満載した軍用トラックの縦隊がゆっくり天安門から東へ向かい、「パン、パン」と威嚇射撃するのを目撃した。最初空砲だと思ったが、実際は実弾だった。被害を受けた大使館員の部屋を検証したが、「人が死ななかったのが不思議なくらい」と感じた。
◇米は事前把握か
記者は天安門事件30年に合わせ、事件当時に日本大使館が外務省にどういう電報を発信したか把握するため、情報公開請求した。公開されたのは1件だけで、乱射事件に関して中国中央テレビが7日夜に伝えた報道だった。移動中の軍部隊が襲撃を受け、兵士1人が死亡し、3人が負傷したため部隊は反撃を余儀なくされた、としている。
しかし笠原氏は「推測だが、西側のマスコミが次から次へと(天安門)事件を報道するので、襲撃を受けたという理由にして脅したのではないか」と分析。外交官アパートには日本・欧米メディアの北京支局が入っていたため、中国軍が意図的に警告したという見方だ。
乱射を受けたアパートには多くの米外交官も住んでいた。当時の駐中国米大使ジェームズ・リリー氏の回顧録「チャイナハンズ」(2004年、邦訳は06年)によると、米大使館の陸軍武官は前日夜、知り合いの中国軍将校から電話を受け、翌日はアパート2階以上にいてはならないと警告を受けていた。米大使館では大多数の外交官と家族を避難させた。
これが事実なら、解放軍内部に当時、西側外交官・メディアを断固威嚇すべきという強硬論とともに、米外交官が死亡すれば米中関係が最悪の事態に陥るという危機感もあったことを示している。同時に「米はなぜ日本など同盟国にその情報を伝えなかったのか」(外交筋)という疑念もわく。
乱射事件では当時の中島敏次郎大使が「許されない」として中国外務省に断固抗議の電話をかけた。外相、外務次官など上層部は誰も出ず、最後につかまったのは当時日本課長の王毅氏(現国務委員兼外相)。王氏は一言も謝らず、ひたすら無言の対応に終始した。その後の外務省と日本大使館との交渉でも、中国側は部屋の損害の弁償には応じたものの、やはり謝罪はしなかった。(時事)
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