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【図解・国際】1989年に起きた天安門事件の状況(2019年5月)

1989年に起きた天安門事件の状況

30年前の天安門事件、「流血の北京」克明に=抵抗市民に発砲-防衛駐在官メモ

※記事などの内容は2019年5月28日掲載時のものです

 30年前の1989年6月4日に中国の北京で起こった天安門事件の際、日本大使館で情報収集を統括した防衛駐在官が詳細なメモを残していることが分かった。民主化を求める学生を応援し、人民解放軍に抵抗した「勇気ある市民」やその市民に一斉発砲する兵士、血まみれで倒れる女性の姿など「流血の北京」が克明に記されている。当時の防衛駐在官がどう情報を集め、事件をどう認識したかを示す貴重な記録だ。

 ◇銃向ける「党中央」に失望

 この防衛駐在官は笠原直樹氏(69)。89年5月25日に着任したが、既に北京市内には戒厳令が敷かれ、天安門広場での学生デモは重大局面を迎えていた。6月3日未明、目を覚ますと居住する外交官アパートの窓から、大通りを行進する2000~3000人の兵士の列が見えた。「あーっ、あれは解放軍だ。衝撃が頭から爪先まで走った」と記した。
 3日午後、笠原氏は個別に情報を集める大使館員に対し、街で見た軍や市民の動向について時間、場所、内容などを定型カードに記録するよう要請。壁に貼っていた大きな北京地図をはがし、館員が入手した情報を書き込んだ。大使館内の大部屋を「オペレーションルーム」とし、館員の情報共有と組織的行動を徹底させた。
 大使館は当時、天安門広場に近いホテル「北京飯店」14階に部屋を確保し前線拠点とした。3日深夜から4日未明、天安門広場の制圧のため戦車と装甲車が前進した。大使館に陣取った笠原氏の元には北京飯店にいる館員らから刻々と情報が入る。
 「午前2時35分 実弾発射はほぼ間違いなく、市民4~5人が血まみれで重傷。広場はかなり危険」「3時 戦車が射撃しながら天安門広場に突入。広場にいた学生を一掃」。館内では「市民に銃を向けるようなこんな(共産党)中央はダメだ。いつかは倒れるよ」という失望の声が漏れた。

 ◇「タンクマン」目撃

 天安門事件の本質は、学生の民主化要求運動であると同時に学生を支持した市民と党中央の「闘争」だった。4日、軍の広場制圧後、笠原氏は自転車で広場周辺の「最前線」に向かった。「そこには200人ほどの『勇気ある』市民が、解放軍の第一線に対して150メートルほどの距離をとって、いまだに抗議をしている」とメモにある。
 さらにこう続く。「解放軍の第一線方向から射撃が起こった。『勇気ある』市民が一斉に逃げ出す。パニック状態だ」。流れ弾に当たり、胸から腹にかけて血に染まって倒れた女性を、北京飯店から目の当たりにした。
 5日昼には同じく北京飯店から、軍への抵抗の象徴として有名な「タンクマン」(戦車男)を目撃した。「1人の学生風の男が、つかつかと先頭の戦車の前に出て立ちはだかった。『あっ、ひかれる』。誰もがそう思った」。しかし戦車は止まり、方向を変えた。「戦車指揮官の困惑が、戦車の動きを見ただけで分かった」とメモにある。結局、男性は警察に連行されたが、「見ていた人々からため息がもれたような気がした。市民の抵抗のすべてが終わったのだ。象徴的な出来事だった」と記された。(時事)

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