図解
※記事などの内容は2019年2月26日掲載時のものです
バブル絶頂期に平成を迎えた金融界は、その後の地価急落などで巨額の不良債権を抱え、連鎖的な危機の中で大手行も含めた再編・淘汰(とうた)を繰り返す「負の遺産処理」に追われた。平成の30年間に破綻した銀行や信用金庫、信用組合などは180超。公的資金活用などで生き残った金融機関も合併や統合を迫られ、大手銀行は23行から5陣営に集約された。
「地獄の底が見えた」。都市銀行の一角を占めた北海道拓殖銀行や4大証券の一つだった山一証券など、四つの銀行・証券が相次ぎ経営破綻した97年11月。危機対応に奔走した当時の金融当局者は、魔の1カ月をこう振り返る。
危機連鎖の始まりは、中堅の三洋証券が同月3日に倒産した際、金融機関同士が資金を融通し合う短期金融市場で発生した少額の返済不能だ。これが市場の疑心暗鬼を招いて資金の出し手が急減し、信用力が低かった拓銀は17日、資金調達難から大手行初の破綻に追い込まれた。
信用不安は増幅し、24日には大口顧客への損失補填(ほてん)などで多額の簿外債務を抱えた山一証券が自主廃業を決定。26日には仙台市に本拠を置く徳陽シティ銀行も破綻し、全国各地の金融機関に預金を引き出そうと行列ができる異常事態に発展した。
日銀や大蔵省(現財務省)幹部が各地に飛んで混乱を収拾したが、風評で資金繰りに窮しても金融機関を危機から救う制度は当時なく、ある関係者は「祈るしかなかった」と述懐する。
翌98年には公的資金による金融機関の資本増強が可能になり、大手21行に実行されたが、危機は収まらない。同年10月には住友信託銀行との合併話が頓挫した日本長期信用銀行が、一時国有化の枠組み整備直後に経営破綻。同じ長信銀の日本債券信用銀行も12月に破綻した。
生き残った大手も再編を迫られた。かつて都銀トップだった富士銀行と第一勧業銀行は、長信銀3行で唯一生き残った日本興業銀行とみずほホールディングス(HD)を結成。これに触発された住友銀行は旧財閥の枠組みを超え、三井系のさくら銀行と合併に踏み切った。
危機終えんの兆しが見えたのは2000年代に入ってから。公的資金投入によるりそなHDの実質国有化、不良債権問題の象徴だったダイエーの公的管理、三菱東京フィナンシャル・グループによるUFJHDの救済合併などを経て、日本の金融界はようやく落ち着いた。
しかし、100兆円に上る不良債権処理に10年以上を要した平成の危機は「取り返しのつかない時間の浪費だった」と元当局関係者。中国などの経済発展を横目に、日本では急速な少子高齢化と人口減少が進み、地方銀行などはパイが縮小する中での生き残りを余儀なくされている。
近年はデジタル化の進展とともに、新興IT企業などが金融機関の独壇場だった決済分野に続々と参入。平成を生き抜いた大手銀行トップも「決済は金融機関という常識が崩れている」と危機感を強める。平成後の新時代に適応するための本当の試練はこれからだ。
新着
会員限定