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反感に当惑、規律称賛も 関東大震災救援の米軍幹部―受け継がれた教訓・手記初公開

2023年08月30日07時06分

米陸軍のビショップ大佐(後に少将)が残した手記(親族提供)

米陸軍のビショップ大佐(後に少将)が残した手記(親族提供)

  • 米陸軍のパーシー・ビショップ大佐(左、後に少将)と家族(撮影日・場所不明、親族提供)

 日本の反感は不可解だった―。100年前の関東大震災の直後、救援に駆け付けた米軍幹部が残した手記が親族によって初めて公開された。日本政府から疑念の目を向けられ、しばらく支援物資を荷降ろしできなかったことなどを詳述。当時、台頭する日本とアジア進出を強める米国の水面下に漂っていた微妙な緊張が浮かび上がった。

率直な視点、支援の「裏話」も 関東大震災100年

 ◇「まさに死の町」
 手記は「私は年老いた兵士だ」の一文で始まる。筆者のパーシー・ビショップ米陸軍大佐(当時)は震災が起きた1923年、日本支援を即断したクーリッジ大統領の指示で駐留先のフィリピンから急行。輸送艦「メリット」で東京湾に入ると、既に米海軍アジア艦隊所属の数隻がいかりを下ろしていた。
 「道路上や地割れの隙間、湾内の至る所に遺体があった。まさに死の町だった」。時事通信が入手した手記の一部には、ビショップ氏が目の当たりにした横浜の惨状が克明に記されていた。
 メリットには食料などの支援物資が積まれ、看護師らが乗船していた。だが、日本政府は支援受け入れに難色を示した。
 「われわれが領海内にいることに対する憤りのような役人の態度は理解できなかった」。ビショップ氏は思いを巡らせる。「根拠のないプライドか、メンツを気にしているのか、震災に乗じて侵略されると恐れているのか」。1906年のサンフランシスコ地震の際、米国が日本の支援を断ったことを根に持っているとの臆測も出回った。
 ◇日本将兵と交流
 在日米大使館を通じた交渉の末、ようやく横浜に入港した。「ゼリーのようにぬかるんだ海岸」に仮設病院を設置。兵士数人を上陸させ、がれきの撤去や道路の片付けを行った。小さな余震も感じた。
 日本政府の災害対応は当初、混乱を極めていたように見受けられたが、がれきを片付ける日本兵は日に日に増えていった。着剣した小銃を担ぐ兵士の一団と擦れ違った。ラッパや信号用手旗、毛布、水筒を携帯し、整然と行進する様子は「訓練と規律が行き届いているようだった」。
 メリットを訪れた陸軍参謀本部の少佐らとも会話を交わした。「機敏かつ知的」で「参謀本部や軍幹部の将校は教養があり、有能だという印象を受けた」と振り返る。
 ◇トモダチ作戦で開花
 ビショップ氏は退役後、日本での経験について、災害で苦しむ人々の力になれたとして「最も報われた軍務の一つ」と語っていた。子供の頃に体験談を聞いた孫のトーマス・ワスコー氏は、祖父や父と同じく軍人の道に進んだ。
 「祖父の話は私に二つの教訓を与えた」と同氏。「一つは危機的状況においては、国籍や政治信条に関係なく助け合わねばならないということ。もう一つは、人道危機で常に最前線に立つ軍人は、支援活動に必要な技術を磨かなければならないということ」。
 ワスコー氏は関東大震災から78年後の2001年、在日米軍司令官に就任。05年までの任期中、日米同盟の強化と両国の信頼関係構築に尽力した。受け継がれた教訓は、11年の東日本大震災で米軍による被災地救援活動「トモダチ作戦」へとつながった。

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