全ての人と「共生」目指したい 中村医師の思い生かせるか〔東京パラ・あと半年〕
2020年02月25日07時02分
1964年の東京パラリンピック実現に力を尽くし、「日本パラリンピックの父」と呼ばれる人がいる。日本代表選手団長を務めた大分県別府市の医師、故中村裕さん。障害者への理解が十分とはいえなかった当時、大会にどんな思いを込めたのか。開幕まであと半年となるのを機に、長男で自身も医師の太郎さん(59)と、中村さんが同市に設立した社会福祉法人「太陽の家」理事長の山下達夫さん(61)に話を聞いた。
◇スポーツをリハビリに
「障害者がスポーツや仕事で充実した生活を送っている英国の様子を見て、日本が遅れていると感じたのではないか」―。太郎さんは父の胸中をこうおもんばかる。中村さんは60年に7カ月間、ストークマンデビル病院に留学。脊髄損傷者のリハビリにスポーツを導入したグットマン博士に学んだ。
当時の日本では、けがや障害が悪化する懸念から、リハビリとしてのスポーツはなかなか理解を得られなかったという。「父は(物事を)良い方に変えることが楽しかったのではないか。がむしゃらに働いて、やればやるほど結果がついてきた」と太郎さん。実業家のように国内外を飛び回った中村さんは、政治家や行政を説得し、東京大会実現を目指した。
中村さんはさらに、「太陽の家」で障害者の社会参加に目を向けた。自身も四肢まひの山下さんは「障害がハンディにならない職をつくろうと、先生は太陽の家と大企業とで共同出資会社をつくった」と振り返る。その一つ、システム開発会社の三菱商事太陽社員だった山下さんは「この会社に入れたから、夢だった家族も持つことができた」。中村さんに「山下頑張れ。この会社は君たちが頑張らないと成長しないんだ」と声を掛けられた時のことは忘れられないという。
◇太陽の家はなくなれ
太郎さんは「先進国として日本が考える障害者スポーツって何でしょう」と問う。前回大会は欧米に追い付くという意識が強かったが、日本でも障害者スポーツが定着した今回、もうお手本はない。「父なら途上国に目を向けたと思う。パラリンピックに縁がない国はたくさんある」。今度は日本がリーダーシップを取り、他国のお手本になることを期待する。
障害者の社会進出はこの半世紀で進んだが、山下さんは「『障害者はみんな弱者』という考え方を変えてほしい」と心の成熟も求める。障害者が経済的に自立し、家族も持てるという思いからだ。「先生は『太陽の家はなくなればいい』と言っていた。施設で囲むのではなくて、障害者が地域で当たり前に生活することが必要だと」。山下さんはこれを「共生」と考え、「永遠のテーマだと思う」と力を込めた。
◇中村裕さんの略歴
中村 裕さん(なかむら・ゆたか)1927年3月31日、大分県別府市生まれ。51年九州大医学部卒業後、整形外科医に。60年、英国のストークマンデビル病院に留学した。65年、障害者の自立を支援する目的で別府市に社会福祉法人「太陽の家」を設立し、「オムロン太陽」「ホンダ太陽」など、企業との共同出資会社で障害者雇用を進めた。極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(現アジアパラ競技大会)、大分国際車いすマラソン大会の実現に関わった。84年に57歳で死去。
![]()


































